20230724変身

なんというか、面倒くさいのだ。

働きたくないのだ。

どういうことか。

つまり、働くということは、なんというか、何かをするということだ。

自分が「何かをしている」と思うとき、人は、「自分が何かをしている」と思わないでいることは、できない。

おや、同語反復のように、聞こえるだろうか。

すなわち、私が述べたいのは、以下のことである。

人は、「自分で自分が社会人だと思っている社会人」にならずに社会人になることは、きわめてむずかしい。

なにを言っているのだ。

たとえば、これは、あらゆるアイデンティティにまつわるすべてが、そうである。

「自分で自分が男だと思っている男」にならずに男になることは、きわめてむずかしい。「自分で自分が日本人だと思っている日本人」にならずに日本人になることは、きわめてむずかしい。否、不可能だ。なぜならば、「社会人」でいることは、「男」でいることは、「日本人」でいることは、さしずめそれが、すべてであり、それでしか、ないからだ。つまり、「自分で自分がそれだと思っている」という状態になってはじめて、それになる。変身するのだ。おや、これは、仮面だ。「社会人」でいることや、「男」でいることや、「日本人」でいることに、本質はない。根拠はない。仮面の本質は、仮面の下ではなく、仮面そのものにあって、それこそが、モチーフの持つ、根源的な力なのだ。そして、仮面とは、なにかを隠すために用いるのではなく、なにかに変身するために、用いるものなのだ。

変身せずに、「それ」になれるか。なれない。で、あれば、変身しなければ、私はいったい何者なのか。何者でもない。私は、私だ。しかし、本当にそうか。

私とは、なんなのだ。が、こうして横になっていると、そんなことも、どうでもよくなってくる。

気持ちが良いのだ。腹も、ふくれている。

心配事も、不安も、なにも、ないのだ。

・・・ふむ。

私は、「自分で自分が社会人だと思っている社会人」に接すると、どうにも、たまらないのだ。

たとえば、彼や彼女らは、けっこう、良い感じなのだ。どういうことかというと、格好良い感じの、服装をしているのだ。スーツとか。

それで、格好良い感じの、話し方をしているのだ。

たとえば、座っているときにそれがしたいのなら、前のめりになって右肘をついて、手を口元にもっていくのだが、手はけっして、口に触れてはならないのだ。口のちょっと手前のところに持ってきていて、なんというか、ちょっと考えている風で、口元に手をやる感じで、それでいてハキハキと、よく通るような声で、しかし大声ではない、ちょうどいい大きさの声で、ちょうどいいむずかしさのことを、ちょうどよく話しているのだ。つまり、知性と品性があるような感じで、話しているのだ。すると、聞いているほうも、「ふんふん」というふうに、いかにも聞いているように、見せている。ほう。それは、見せているだけなのだ。べつに、本当に考えているというわけではないのだ。だがしかし、それが、われわれの、すべてなのだ。それが、仮面。それが、変身。

まあ、それは、いいのだ。自分でも、やってみると、これがけっこう面白くて、くせになるのだ。なぜならば、この「やってる感」ほど人を健康にさせるものは、ないからだ。人は、人に認められると、うれしいし、人にけなされると、かなしい。だから、人は、人の輪のなかに入って、人といっしょに働いて、はじめて、幸福感を得られるのだ。だから、人にわかるように話したり、人に好かれるようにニコッと笑ったりして、しかもそれが成功したりしたら、人は、ぞくぞくするものなのだ。

なんだか、おかしいな。

知性と品性がある感じにふるまうと、人は、なぜだかその人のことを、信用するのだ。

私も、そう。

が、そこに本質というものはない。本質と呼べるものがあるとするならば、それはつねに、仮面のレベルにおいてでしか、ない。

・・・ふむ。

たとえば右手をこう、胸の前にもってきて、あるモットーを唱える。

モットーは、個々人によってちがう。

〈冬来たる〉をかかげる者もいれば、〈炎と血〉をかかげる者もいる。

氏神は復讐の女神〉をかかげる者もいれば、〈折れぬ、枉げぬ、まつろわぬ〉をかかげる者もいるし、〈われら種を播かず〉をかかげる者もいる。

モットーを唱えると、人は、そのイデオロギーと同化し、《社会人》に、変身する。

 

よって《社会人》への変身には、以下のステップが必要になる。

  1. 自身のアイデンティティを決定づける何かしらのイデオロギーを持つこと。(たとえば『お金より愛』『皆死なねばならぬ』『健康第一』『何事もほどほどに』『ソビエトの復活』なんでもいい。これは、各人のモットーと呼ばれる。)
  2. モットーを唱えながら、その名をあらわす体をつくること。(つまり、変身ポーズである。これは、人によってちがう。たとえば、一杯のコーヒーの抽出、お気に入りの帽子の装着、ある曲を聴くこと、聖言の朗読など、あらゆるルーティーンや、日頃の習慣がそうである。)
  3. すると、人は、《社会人》へと、変身する。
  4. 《社会人》に変身した人間は、自らの名と歌をもつ。名は、名前である。(名を持たぬ社会人は存在しない。=綴じ目のないクッションは存在しない。)歌は、モットーである。(なにかしらのイデオロギーを持たぬ社会人は存在しない。=クッションのない綴じ目は存在しない。)
  5. 名と歌を持ち、その両者をイコールでむすぶ身体(ポーズ)が開発されたとき、人は、はじめて、自身が持つ労働力を、もっともパワフルなかたちで外部へ向かって発現することができる、《社会人》という名のヒーローへと、変身する。(ちなみに労働力とは、各人が持っている生命エネルギーの総体のことであり、これには量も質も個々人によってかなりバラつきがある。)(→特級術師である乙骨憂太は、その呪力量が他の術師にくらべて桁違い{つねに呪力が最大出力のため攻防力ともに常時マックス}であるが、それを上回るのが六眼を持つ現代最強の術師、五条悟である。乙骨に呪力切れはあっても、五条にはない。それと同じように、各人が持っている労働力の先天的な性質や、その発現の仕方のクセ、といったものが、社会で戦う際の戦局を大きく左右する。もしも底なしの労働力を持つ者がいれば、それは現代最強の社会人となる。)
  6. 生きるためには、労働力の維持と、再生産と、さらにそれを自身の戦闘スタイルへ昇華させる方法論とが、必要不可欠である。→①どういったモットーを用いて、どんなデザインの仮面をあつらえ、どんな存在に変身するか  ②自身の労働力の性質を理解し、それを利用して、どんな能力を開発するか、また、それを用いてどうやって戦うか。
  7. これが、重要である。

・・・ふむ。

そう考えると、あらゆるヒーロー作品において、英雄が自身の名を名乗るシーンが、とくべつに重要なシーンとして描かれるのも、得心がいくものである。

サノス「私は、絶対なのだ!」

トニー・スターク「そうか、ならば、私は、アイアンマンだ」

アベンジャーズ エンドゲーム)

「絶対」なる存在よりも、「私」が「私」によって名付けられた固有の歌と名を持つはかない存在のほうが、おそらく、モチーフとして強い力を持っているのだろう。ゆえに、サノスは、アイアンマンに、敗れるのだ。

きっと、そう。

社会に対してヒステリーを起こしている人物は、この意味において永遠に真の社会人にはなれない、のか。なぜならば、「私」が「私」の名において「私」自身を叙任すること。それが社会人の持つ唯一にして最大の英雄的性質であるからして、「俺は好きで働いているんじゃない」「これは本当の私じゃない」と思いながら働いているかぎりは、彼や彼女は、永遠に亡者か囚人、なのか?

きっと、そうだ。

しかし、なぜわれわれは、「自分で自分が社会人だと思っている社会人」にならずに社会人になることが、こんなにもむずかしいのだろうか。

第一に、おそらく、労働時間のせいはあるだろう。

たとえば、週に20〜30分ほどしか働かなくても、家が買えたり、車が買えたり、旅行ができるようになったら、自分の仕事にやりがいを見出す人が、どれだけいるのだろうか。

われわれは、どんな種類の労働であっても、それをするのに、週に何十時間も身体を拘束される。はたらけばはたらくほど、時間はなくなる。が、金は生まれる。労働力の質がわるくても、労働量さえ平均値を上回れば、ほとんどの作業に金銭が発生する。すると、われわれは、なんだか生きているのがもったいない気がしてくるのだ。こんなに何十時間も、よくわからない仕事をして、よくわからないことをしゃべって、それでお金をもらっているのに、それを使う時間は足りないような気がして、なんだかもったいないような気がしてくるのだ。だから、「これはやりがいのある仕事なんだ」ということにする。すると、われわれは、新しいアイデアを思いついたり、その企画を通すための人脈をつくったり、スキルを開発したり、そのはたらいている時間を、少しでも楽しくしようとするのだ。もし週に数分しかはたらかなくても生きていけるのだとしたら、われわれは、はたらくことに、意義を見出すのだろうか。

しかし、第二に、そもそも、人は、もしも週に数分しかはたらかず食っていけたとしても、おそらく、それでは満足せず、けっきょく、人は、自分で新しい仕事を生み出して、なんやかんや労働に従事してしまうのだろう、そして、好むと好まざるとにかかわらず、人は、「自分で自分が社会人だと思っている社会人」になり、《社会人》へと変身する。なぜならば、やっぱり楽しいのだろう、それになることは。

20230712

・・・ふむ。

とすると、

この世には、価値のある仕事など、ないのだな。

意味のある仕事も、ない。

なぜならば、

カール・マルクスが言うに、

・交換価値としては、あらゆる商品は一定量の凝固した労働時間にほかならない。

・交換価値で表示される労働は、一般的人間労働(すべての平均的個人がおこなうことのできる平均労働、つまり人間の筋肉、神経、脳髄等のある一定の生産的使用のうちに実在している、単純労働)である。

・労働時間とは、一般的労働時間として、ある一般的生産物で、ある一般的等価物、対象化された労働時間のある一定量で表示される、そしてこの一般的生産物は、(略)・・・ほかのだれかの生産物として表示される使用価値のどんなほかの形態にでも任意におきかえられる。

たぶん・・・

『ボクにしかできない、名誉と栄光に満ちた仕事』といったものは、

この世には、ないのだろう・・・

全員、クズなのか、人間は

ところで、頑張らないのは、楽だな。

頑張ると、苦しい。

だが、頑張らないとできないことも、ある。

・・・ふむ。

なんとも健気に累乗された、単純労働だなあ。

自分の仕事にやりがいを見出している人たちの・・・

立派に飾り立てたおつむを、ちょんちょんとつついてやれば・・・

怒るか、泣くか、笑うか、フリーズするか、

わからないが・・・

死神の送りつけてくる請求書には、

「さっさと死ね」としか書かれていない。

見ると、何かの割引券なども、同封されている。

そこにはこう書かれている。

 

it's only when your poison spins

毒がまわりはじめたら

into the life you'd hoped live

生きたいと願うもの

and suddenly you wake up in a shaken panic

とつぜんパニックになって

目が覚めた

now

いま

 

you had set me up like a lamb to slaughter garbo as the farmer's daughter

あなたは私を

虐殺される子羊のように

農家の娘を演じたグレタ・ガルボみたいに

罠にはめた

unbeliavable. the gospel according to ...who?

信じられない

ゴスペルは従っている

誰に?

I lay right down.

私は横たわる

 

all your sad and lost apostles

悲しげな使徒たちが

hum my name and flare their nostrils

私の名前を口ずさみ 鼻の穴をひろげる

choking on the bones you tossed to them

投げ捨てられた骨が 私を窒息させる

now I'm not one to sit and spin

だけど私は そこに座ったまま 落ち込んだりしない

because living well is the best revenge

だって生きることは 最大の復讐だから

and baby, I am calling you on that

ベイビー あなたに呼びかけている

baby, I am calling you on that

ベイビー あなたに呼びかけている

 

頑張らないと、ココロに余裕ができる。

ココロに余裕ができると、人は、ニコッと、笑う。

なぜならば、ココロは、あったかいからだ。

キミが笑うセカイは、こんなにも、輝いている。

どんなに暗い夜だって、その先には、光り輝く明日が待っているはずだと、信じている。

だるい。働きたくない。

寝かせてタモ。

面倒でしかたがない。

やる気がでない。

20230709ゲッターズさん

死神の請求書には、「さっさと死ね」としか書かれていない。

見ると、何かのきらきらしたステッカーなども、同封されている。

そこにはこう書かれている。

〈Living Well Is The Best Revenge “生きることは最大の復讐”〉

 

ゲッターズさんが、私を占ってくれた。

すると私は、《銀の羅針盤》だった。

しかし見ると、その羅針盤には、数字はおろか、いかなる目盛りも刻まれておらず、

針もなかった。

するとゲッターズさんは、やさしく笑って、

「いいんですよ。目盛りも、針も、なくったって。ぜんぶ、自分で決めればいいんです。まっしろな銀の羅針盤、素敵じゃないですか。これこそ、自由ですよ。あなたはきっと、大丈夫。そのまっしろな羅針盤に、好きな絵を描きましょうよ。きっとその絵が、あなたをどこか素敵な場所へ連れていってくれますよ」

すると私は感激のあまり、

思わずその先達にたずねて、

「先生。先生はなぜ、仮面を被っておられるのですか。どうか、お教えください。私という器を満たす好奇心の水が、先ほど先生の一言によって生じた歓喜の亀裂からあふれて、止まらないのです。その仮面は、何かをお隠しになるためのものなのですか。それとも、何かからお隠れになるものなのですか」

するとゲッターズさんは、

ニッと笑って、

「仮面はね、隠すために用いるんじゃない、変身するために用いるんだ」

と言ったが、

私はなぜだかその仮面がとても汚らしいものに見えてきて、

たまらずログアウトした。

 

最近、気づいたことがある。

頑張ると、苦しいのである。

頑張らないと、楽だ。

これはひとつの、公理である。

が、楽なのがずっとつづくのも、人は、嫌なのである。

苦しいのも、好きなのである。

なぜなのだ。

 

〈Living Well Is The Best Revenge 〉https://youtu.be/rj55GSeXYuI

20230705

新しい音楽を聴くのがだるい。

映画を見るのもだるい。

だるい。疲れた。

だるいから布団に横になる。

気持ちが良い。

風呂上がりなど、クーラーの効いた部屋で布団に横になると、気持ちが良い。

気持ちが良い。

だるい。

そもそも、ただ生きているだけで、労働力は、消費されていく。

刺身と日本酒、

美味しい。

そのあと、誰かと寝るなら、

お互いの性器の所有権を、主張しあう必要がある。

グロテスクだ。

が、身体というのはいつも、グロテスクなものだ。

やる気がでない。

性行為というものは、いつも、その前と、後があって、どこかからはじまり、どこで終わるのか、明確に決まっているわけではない。

行為が終わったあとも、ベッドには、相手が横たわっている。

それは死体や、建材と同じで、どこかに捨てるか、移動させなければ、何十年もそこに横たわったままで、あらゆる生活を阻害する。

(そろそろ帰ってくれないか)

と一方が思ったとしても、もう一方が(まだ一緒にいたいな)と思っていたとしたら、それはお互いにとって、叶わない夢になる。

お互いに、傷つけないように、傷つかないように、ゆっくりと、やんわりと、コミュニケーションをしたり、肉体的に触れ合ったりして、やがて別れて、相手のすがたが見えなくなり、一人きりになったら、ようやく安心して、眠りにつけるのだ。

で、あるとするならば、それをするには、かなりの労働力が必要になる。

だるい。

そもそも新しい音楽を聴いても、よくわからないのだ。

『わかる』というのは、いろんな意味で、自分のものになるということだ。

ここで言う『自分』というのは、私というゴーストを搭載したこの脳と身体と、それらを含め展延された私の周囲の環境のことだ。

つまり、私の脳+身体+環境=『私たち』のことだ。

情報は、『私たち』のなかへ入って、既存の概念と結びつくと、身内のものになる。それが、『わかる』ということだ。

しかし『わかる』といった状態になるには、何ヶ月も、何年もかかることもある。

それは、やっぱり、だるいのだ。

SNSで、ひたすら、淫婦たちの写真を見ていたほうが、楽しい。

だるいのだ。

映画も、家で見るには、長すぎるのだ。

集中が、つづかない。

飽きるのだ。

何というか、どうでもいいのだ。

映画のなかで起こっていることが、何だかどうでもいいのだ。

新しい音楽も、聴いてみると、まるで興味なくて、すぐ飽きてしまう。

しかし、わかっている。それはこれまで何度も体験してきたことであり、音楽を聴くということは、はじめは、本当に、大変なのだ。が、飽きるのを我慢して聴き続けていると、何ヶ月か、あるいは何年か経ったあとに、とつぜんそれが身内のものになって、かけがえのないものとなるのだ。

そのことは、わかっており、わかっているのだが、もはや、面倒なのだ。私は、もう、いまあるものだけで、じゅうぶんなのだ。どんなときに、何を聴きたくなるのか、私にはもうわかっているのだ。私には、私のことがじゅうぶんに、わかっているのだ。が、それは気のせいだった。

散歩をするのだ。

私は散歩をしていると、遠くの山々を眺める。すると、風景の起源は瞳で、それは対象の審美的特質よりも、ただまなざしが遠くまで広がっていくという運動そのものに本質がある、というようなことが書いてあった蓮實重彦の本を思い出すが、同時に、

(腹が減ったな)

(女と寝たいな)

というようなことしか思いつかない。

だるい。

世の中に出回っている、文章は、このような、簡単で、適当な、ものが多い気がする。書いたものが、書いたものだ。頭のなかにある抽象的な推論や、アイデアよりも、すでに書かれたものというものは、それだけで形がはっきりとしていて、伝達されやすい。つまり、書いたものが、書いたものだ。ということだろう。書くこと自体に、意味はないが、とにかく書いたものが書いたものなのだ。

同時に、私はこう考える。

言葉にならない思考や、いわゆる世間的な頭の良さとは別のベクトルに伸びた知性、というようなものは、

ものを食べたり、眠ったり、身体を動かしたりすることそのもののなかに、すでに秘められていて、

食べて、飲んで、ヤって、生きることは、重大な、

ことだが、

死神の請求書には

「さっさと死ね」としか書かれていない

それに関しては「今日ではない」と

記して返送することが

いまでは一般的なしきたりになっている

20230622かなり前の日記

 

2019年3月13日

高円寺駅。15時。清水と会った。

「意図的に意味のないことをする」と彼は言った。

めずらしく、私の方が疲れていた。私が何度も早期の解散へと話を誘導するのに、彼が勘付いてあわてて止めるというやり取りが何度かくり返された。

私は目の奥が重たくなっていて眼球に致命的なしおれを感じた。

「これから何をするかカフェで話し合おう」

と、彼は言った。なぜカフェ。一週間ほど前の日も、一日に四、五件、カフェやレストランで休んだ。でもそれは彼の弱った身体が休息を要していたからであった。

しかしその日の清水は元気だった。朝の5時まで村岡と小澤さんとゲームで通信しながら話したあと、昼に起きて、納豆ごはんを食べたと言っていた。彼の身体は回復に向かっており、それは私のテーブルの向こうにあった。私たちはコーヒーを飲んでいた。それから彼は私に、

「藤田のことをどう思うか」

と聞いてきた。彼は、

「興味がないというのは無しだ」

と釘を刺したが、私は興味がないなどとは思わないが、いまでは遠く会津にいて話す機会がなくなってしまった藤田に対して、いまあれこれ思うことはできない、と答えた。ただ彼との日々は楽しかった、と答えた。

それから私たちは6×60ステントラスビス全ネジ2番ビットを探しに、ホームセンターへと出かけた。が、無かった。

私たちは高円寺にいて、雨が降ってた。

私たちは異国めいた古い怪しげな商店街を歩いて行った。

その通りにはジャズマスター専門店の小さい楽器屋があり、私の妹がここでテスコのビザールギターを買ったのが去年の夏のことだった。

私たちは店に入ると、あとから若い女性がコーヒーを持ってやってきた。

彼女はおそらく店番だった。

「試奏していい」と言われたので、私は60年製のジャズマスターを指差して、その人がアンプに繋いでくれた。ジャズマスター持つと、意外と軽かった。私は生まれて初めてジャズマスターを持った。弾いてみたが、音はよくわからなかった。ただ弾きやすく、意外と軽く、思っていたよりもボディが薄いと思った。

私は店番の人と話すのに、清水は店内をうろうろしていた。

ジャズマスターは、心をうっとり愛撫されるような、抗いがたい魅力的な形状をしている。前のめりになっているような、疾走感のある形をしている。まるで豹かコヨーテの走る姿を空中で切り取ったかのようだ。

こんなに軽いのか。

いや、何よりも薄い。速い。だが、動いてはいない。静止している。しかし止まっているように見えてもその奥には何か一心不乱な速度のようなものを感じさせる。スーパーカーのような形をしている。

我々は店番に別れを告げると、店を出た。

「いまの女の子ぜったいお前のタイプだろ」

と、清水が開口一番に言った。彼が店番の女の話をするのに、私はギターの話ばかりした。そしてそれが本当にギターの話になった。

「やるよ。やるから教えてくれよ」

と、清水が言い、我々はラーメンを食うと電車に乗って私のアパートへ行って焼酎を飲んで彼はあぐらでギターを構え、私はギターを教えることになった。

一万円の黒いテレキャスだがテスコのビザールより百倍弾きやすいのであった。彼がBUMP OF CHICKENダンデライオンの名前を口に出したのでそれを教えることになった。スコアブックに〈高い難易度〉と書かれていたが、彼は弾きはじめると二時間でイントロのコード三つ運指とストロークまで出来るようになった。

20230530音楽について

キャサリン・ル・メ著『グレゴリオ聖歌』によると、

聖歌は、いつも完全なユニゾンで、すべての音が同じ長さではっきりと歌われる。心をそらす和音がないだけに、調和がいっそう際立って感じられる。

聖歌には、われわれが期待しているような、感情を疲れ果てさせるようなクライマックスは存在しない。メロディーは、いたずらに感情を興奮させるのではなく、心に糧を与えるかのように、静かに進行する。

中世の人々は、音楽には形のないものに形を与える力があると信じていた。聖歌の言葉を歌にすることで、言葉を礼拝者の心により深く結びつけると同時に、その効果をより長く、より強く感じさせることができるということを知っていた。

また、音には物事を引き起こす性質があり、個人にだけではなく、社会の本質や構造にも変化を及ぼすことができるということを知っていた。

その昔、イェリコの壁を、雄牛の角笛の長い演奏や、トランペットの音、人々の叫び声が打ちこわした。

中世、芸術家も作曲家も建築家も礼拝者も、伝統と聖なる数霊術によって定められたパターンに従うだけだった。ゴシック建築の大聖堂の平面図は、一見複雑で独創性に富んでいるようだが、じつは単純な象徴的パターンから構成されている。

中世の数霊術では、7は完成された事象、神の力と地上の力の合一をあらわすものとされていた。精霊{三位一体}+空気{宇宙の四元素}=7 である。

ファ・ドの7つの音程を持つオクターブは、すべての事象が構成される方法を完全に理解している。この音階を歌ったり楽器で弾いたりすれば、オクターヴの進行が当時どのように考えられていたかわかる。

は始まりで、全体の上昇を決定づける、最初の力強い思いつき。

は思いつきの実現化に向けて、仮に一歩踏み出してみた音。まだここまでの段階では、簡単に説得されて引き返すこともでき、決意を翻してドに戻るのも可能である。

の性質には、実際に一歩前進し、今後登っていける、しかも楽しく登っていけるといった喜びがあらわれている。アーメンという言葉は、しばしばファからミというメロディーで歌われる。

それを考えれば、いくらか胸を締め付けるようなファという音は、まだもとのミへ、さらにはドへと戻ることもできるし、あるいはさらに上っていくこともできる。

の音の性質は、それとはまったく異なったもので、輝かしく勝利の喜びに満ちた音である。それまで不確かだったすべてのことは解決し、エネルギーと情熱にあふれ、先に進む手助けをしてくれている。ソは、オクターヴのなかでは属音とよばれ、はちきれんばかりの力強さを持っている。

。ここでは、ソであれほど明るかった輝きは失われ、上に向かっていることは明らかなものの、「あなたの御心が天と同じように地上にもなされますように」というような甘受の性格が見られる。

の音にいたっては、もう帰ることは不可能だ。上のドに手招きされたシは、自分の力だけではオクターヴの決定は不可能だということを自覚して、天井からの慈悲と恩寵を受け、上のドとの完全な合一を果たす。

上のの1秒間の振動数は、最初のドのちょうど二倍にあたる。

これでオクターヴは完成で、当初意図されたことはすべて満たされた。

 

 ド レ ミ-ファ ソ ラ シ-ド

「-」のところは、黒鍵がない。半音は全音よりも小さいものとして知覚される。この二か所以外はすべて全音で、全音と半音の差は、聴けばかなりはっきりとわかる。

 

【第Ⅰ旋法】

 レ ミ-ファ ソ ラ シ-ド レ

中世の聖歌で最もよく用いられた旋法的音階である。この旋法的音階では、半音が第二音と第三音のあいだ、および第六音と第七音のあいだに来ている。つまり、前半の4音の全音~半音~全音のパターンが後半の4音でもくりかえされる。ミやファやソから同じ手順をくりかえすと、以下のように別の旋法になる。

【第Ⅱ旋法】

 ミ-ファ ソ ラ シ-ド レ ミ

恍惚としている。

【第Ⅲ旋法】

 ファ ソ ラ シ-ド レ ミ-ファ

清爽としている。

【第Ⅳ旋法】

 ソ ラ シ-ド レ ミ-ファ ソ

熱烈、狂的である。

中世の人々にとって、オクターヴとは音楽の展開を支配するだけでなく、ほかのすべての重要な出来事のしかるべき順序を決定しているものだった。オクターヴは、世界の本質そのものに備わっている法則だと考えられており、すべてはその法則に従うものだとされていた。

ところでオクターヴとは、一連の8つの音で、5つの全音と2つの半音を持っている。音楽理論家によると、いくつかの全音は均等ではなく、単に音程を重ねていくだけではオクターヴにならなくなる。1オクターヴ以上で作曲するには、オクターヴの完全性か音程の純粋性か、どちらかを犠牲にするしかなくなる。

この点において、音楽理論は、物理学の理論とも繋がっている。たとえばヴェルナー・ハイゼンベルグ不確定性原理では、ある事実(例:粒子の位置)について知れば知るほど、その事実に関するほかの側面(例:粒子の速度)について知ることができなくなる。音楽における音の特性と波動的側面との関係は、現代物理学における粒子説と波動説の相補論を彷彿とさせるものでもある。

中世において、音楽によるモデルとは、宇宙についての知識を非常にコンパクトにまとめることができるばかりか、その調和の原理にしたがって書かれた歌あるいは聖歌は、その知識を具現化できるものだった。知識とは、単に情報という現実の抽象化に過ぎないものではなく、事物のうちに潜む本質を反映し、歌われることによってはじめてその正体が明らかになる、積極的で能動的な知識のことであった。演奏者の心と、精神と、身体とからなる楽器で演奏されるとき、歌にたくされた知識は、生きた現実のものとなる。そのようにして、歌い手は天と地、原因と顕現の世界の媒介となり、聴衆をより高い世界と直に接触させる。そのとき、歌い手は、天の法則にも地の法則にもしたがっているといえる。儀式は捧げ物となり、歌は礼拝的行為となる。歌は献身的な行為となる。歌を歌うことは、名を名乗ることではない。歌を歌うことは、自分から自由になるための行為である。

ところで、2023年。

およそ千年が経った。とすると、千夜一夜のつぎの夜か。

たとえば、音楽を聴くのと、作るのと、演奏するのと、歌うのでは、ところどころがまったく違っており、すべてが非常に似通った部分もある。

と同時に、近世において最も差があらわれるのは、われわれが奏者であろうと聴者であろうと、それが録音されたものなのか、はたまた生演奏されたものなのか、といったところであろうと思われる。

前者は中世には存在しなかったテクノロジーであり、近代ではこの魔法のような録音技術によってオーバーダブなどの表現が可能になった。そのように、近代の多重録音でしか作れなかった曲がたくさんある。古代〜中世の時代に宇多田ヒカルの楽曲を演奏しようとすると、たくさんの人員と機材が必要になるどころか、場合によっては超越的な時間操作が必要になる。それどころかそこには「電気でしか出せない音」といったものが存在するので、やっぱり無理だろう。そしてそれは、一方で、近代の魔法のようなテクノロジーが、古代〜中世の音楽が担っていた礼拝的性質などの呪術的な力を弱めたとも見てとれるかもしれない。あるいは、それは非常に安易な見方か。いずれにせよ音楽は、アナログレコードからカセット〜CDになり、やがて持ち運べるようになると、データの海に溶出した。とすると、生演奏することは、それ自体に呪術的な意味がある。同時に、録音したものを流すことは、それ自体に呪術的な意味がある。と思う。

ところで、ふだん私が好んでイヤホンで聴く曲と、人々のいる空間で流す曲とは、やはり呪術的に意図されたものが違うものであるべきはずだ。

人々のいる空間で流す曲とは、たとえばクルマの中、部屋の中、お店の中、道、駐車場、広い空き地、川原、ビル群のひしめき合う雑踏など、どこで、誰といるときに、私がなにを流すべきなのか、私は、考え、選び、そこに自身の呪力を練り混ぜ、術式の解釈を押し広げる必要がある。

術式を構築することはできていても、生得領域を具現化することができなければ、おそらく、良いライブにはならない。演者は自身の空間を、さらに見知らぬ人々のふところ半径xメートルまで押し広げ、そこに必中効果を付与しなくてはならない。

音楽を聴いているときに、考えると、これは非常に不思議なものだ。

音楽は、音という素材があって、初めて成立する。

音は電気信号に変換することができるから、われわれが感じている時空間の制約に比べるとずっと自由で、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、いまがさっきになり、さっきがずっと前になった後も、それはだいたいそのときと同じ状態で出力することができる。

そのような「音」が、特定の音楽理論に基づいたテクノロジーで制作された楽器で演奏されると、たちまち「音楽」的なものになる。

音楽は、いまここで演奏することもできるし、録音して後で聴くこともできる。

いまここで演奏された音楽は、そのときに録音しない限り、振動する空間として周囲に拡散していき、やがて静かな、平衡的な状態へと戻る。そのプロセスは不可逆的なもので、さっきの演奏を、いまこうして、聴くことはできない。

鳴っているものを鳴っていないように聴くことは、ほとんど不可能である。聴き流すことはできる。さらに旋律が付与されたものであれば、そのメロディやビートを認識しないように音を聴くのは、きわめて困難である。

「すでに鳴らされたもの」というものは、それだけで強い、ということだろう。物理的な情報は、頭のなかにあるイメージやアイデアよりも形がはっきりとしている。

20230516 いつ書いたかわからない日記

千鳥の『相席食堂』で、ノブの姪っ子が出演し、

ロケの最後に、

「私は何もできない人間だけど、せめて優しい人でありたいと思いました」

と言い、ノブが「なんじゃそのまとめはぁ」

すると大悟が、

「ええやん。それでええやん。皆そうなったらええな。何もできないけど、優しい人でありたいって、そう言えたらええな」

すると私は、外を歩いていた。

見ると、こうも世の中は広く、ランダムでカオスな動きがあり、豊かなものか。

色々なものが、一度に、同時に、動いている。

少なくとも、そういった印象がある。

目の焦点をしぼれば、はっきりと物が見えてくる。

その代わり、目当て以外のものが、どんどんぼやけていく。

だが、ここが日本で、〇〇市であることは、わかっている。

それは、意識の下に透けていて、ゼリーの中の果実のように、ぼんやりと見える。

私は、たとえそこがどんなに知らない道であろうと、自分がどこからどうやって来たのか、覚えているし、そこへ帰るための道順や時系列を、何となく記憶している。

それは、ゼリーの中の果実のように、ぼんやりと見えている。

頭のなかに、いつでも地図のイメージがある。

だが私は、実際にそれを上から見たわけではない。

大陸というものを。

それは、学校で習った。

そもそもあんなに高いところから、一度に、同時に、すべての場所を見下ろすことなど、できない。

だが、人工衛星が、本当に上からの視点を生み出してしまった。

私の頭のなかに、ほとんどGoogleマップがあるが、それはアプリを開かないと、使うこともできない。

迷ったら、地図アプリを開くと、そこがどこで、いつなのか、わかるような気がするが、実際の私は、そこが本当にどこで、いつなのか、わかるわけがない。

私は歩いており、そこにいるような気がする。

だが、本当は、まったくわからないはずだ。

意識のオブラートの下にあるのは、地図だけではない。

服を脱いだら、捕まる。

声を発したら、見つかる。

時を忘れたら、遅れる。

それを思い出すと、おや、ここは日本で、〇〇市か。

俺は、〇〇という名前だ。

ということは、これまでの人生がある。

社会的責任もある。

ここで服を脱ぐわけにはいかない。

なぜならば、ここは日本で、法治国家だからだ。

だが、おや、ここは、本当は、どこなのか。

わからない。

少なくとも、私がここにいて、いま移動しているということは、その先の目的地に、私がいるわけがない。

なぜならば、いま移動している私が、私だからだ。

私は二人いない。

正確には、私は、二つの場所に同時に存在することは、できない。

と、言われている。

私は歩いている。

とすると、私はここにいる。

すると、思い出した。ここは、日本か。

私は、道を歩いているとき、ここが日本だということを、忘れたことはない。

それどころか、どの都道府県の、どの市区町村の、どこらへんにいるのか、わからなくなったことはない。

道に迷ったとしても、どこから来たのか、方角がわかるし、時系列がバラバラになっていないから、いつごろから歩きはじめたのか、だいたいわかる。

海の向こうへ旅をすると、その一部は本当にわからなくなる。

アイスランドの道を歩いていると、やはり時間や空間の一部が、わからなくなる。

ここはどこで、いつなのか。

人はおらず、甘ったるい杉花粉のような匂いがする。

見渡すかぎり、苔の生えた溶岩が続いている。

遠くに火山が見える。海は塩素っぽい白さで、しぶきが激しい。

火山のある孤島は、日本に似ているが、日本ではない。

しかし、ここがアイスランドであるという確証もない。

そもそも、ここは、私の頭のなかの景色なのかもしれない。

小澤さんがいつか、

「景色は情報量が多すぎる」

と言っていたが、あれは彼が景色を見ない理由のひとつだった。

と、私は記憶している。

私たちはそのとき、バンド記事のインタビューで山形駅から米沢へ向かう電車の中で、すさまじい速度で横に流れていく速度と田んぼや山々の広がりを見ながら、私が、

「景色というものは素晴らしいと思わないか。お前は景色を見ないのか」

と言うと、小澤さんは、

「景色は情報量が多すぎる。何を見ていいかわからない。その点○○はいい。(アニメ、と言ったのだったか、デフォルメされた絵、と言ったのだったか、あるいは記号と言ったのか)」

記憶が、虫食いになっていて、ほとんど忘れてしまった。

村岡と小澤さんと三人で鶴岡へ旅行したときも、電車のなかで村岡と小澤さんは、ずっとガンダムの話をしていた。

村岡がガンダムのビームの音やセリフなどをずっとふざけて真似して遊んでいたら、向こう側に座っていたジジイが、

「オイ、声帯模写もいいけど、もっと景色を楽しめや」

と言って、小澤さんは、

「ほう」

というようなことを言うと、

すっと立ち上がり、われ先に席を離れたが、村岡だけがそのジジイに、

「来い」

と言われ、正面の席に座らされ、鶴岡駅に着くまでずっと説教を受けていた。

私はそこに座ったままだったから、少し会話の内容が聞こえてきた。

「兄ちゃん、国はどこや」

「はあ、秋田です」

出羽国か(もしくは久保田藩か)」

(やばいな)←そのときの私が思った。

「ほら。最上川や。いいか坊主。人生ってのは、川の如しやな……」

というような厚かましい説教を受けていた。

村岡は前のめりになって、

「ハイ、ハイ」

と言って聞いていたが、駅に着くと抜け殻のようになっていて、

小澤さんが、

「大変だったな。俺はすぐに席を立ったから良かったよ」

すると村岡が、

「何がいいんだよ。まあ百歩譲って小澤さんは正解だよ。でもこいつは何だよ。他人事みたいにそこに座っていて、動きもしなかったぞ」

私は弁明して、

「いや、席を立つほうがおかしいだろ。村岡が拘束されているんだぞ。俺は近くにいたんだから、良いほうだよ」

と言ったが、村岡は、

「いや、小澤さんはいいんだ。すぐさま動いたからな。だがお前は駄目だ。お前はどっちつかずだったんだ。俺を助けることも、逃げることもしなかった」

というような会話になった記憶があるが、

私はたしかにあのとき、村岡を助けるために、そこに割って入っていったら良かったのだが、私は保身のために、村岡を見捨てたのだ。

そしてバンド記事のために米沢へ向かう電車のなかで、小澤さんが、

「景色は情報量が多い」

というようなことを言っていた気がするのだが、

そのとき彼は、これからインタビューするミュージシャンのブログを読み漁ってきたらしく、

「こんな記事を見つけたんだが、いまお前に見せるのはまずいか……」

というようなことを言ってきた。

つまりこれからインタビューをするにあたって、前もって知っておくと何か不具合がある情報を彼が持っていたらしく、私はブログを読み漁るのはやりすぎなのではないかと思ったが、

無事にインタビューが終わったあと、私もそのブログにアクセスしてみた。

するとこのようなことが書いてあった。

〈今日はインタビューしてもらった。大学生の人たちと聞いていたので、ウェーイな人たちかと思ってびくびくしていたら、ものすごく真面目な人たちで、安心した。最後に『いま幸せですか?』というようなことを聞かれて、うーんと考え込んでしまった。幸せなのかな? 考えたけど、わからない。たぶん幸せなのかもしれない〉

すると私はすぐさま小澤さんに、

「おい! ブログ見たか!」

と言ったが、彼は見た上でとくに関心を持たなかったらしく、

「見たけど?」

というようなことを言っており、私はそのブログを見て、取材後のミュージシャンの素直な反応が見られたことに一人で感動していた。

やや独特なインタビューの方法ではあったが、それが彼女にとってはわずかばかりでも良い影響を及ぼしたのかもしれない、と思い、私は一人で勝手に舞い上がっていた。

しかし小澤さんはあれだけ取材前にブログを盗み見ていたくせに、いざ取材が終わると、ドライな反応だった。

私は不服だったが、そのうち時間が経ち、私は温泉掃除のバイトをしているとき、ふとなぜだかそのミュージシャンのことが頭から離れなくなり、

(これは、好きということなのだろうか)

と思ったが、そう思いながら、向こうの洗い場のシャワーを掃除している伊原さんの背中を見つめていたが、そのとき、

(伊原さんだ。しゃがんでいるな)

というようなことを考えていた。

伊原さんはいつも力の抜けたしゃがみ方をしていた。

が、それは彼女の運動神経の良さが滲み出ている感じだった。

伊原さんは、掃除をするとき、無駄に力んだり、せわしなくしたりしない。ただそこにしゃがんでいて、丁寧なのか、ゆっくりなのか、わからないが、ぼんやり洗ったり、適当に流したりしている。

いつだったか、細田くんと伊原さんと三人のシフトのときに、掃除が終わって、伊原さんが先に風呂から上がるのを細田くんと二人で待っていたら、細田くんがとつぜん、

「今日用事あるんだった。俺、今日、風呂はいいわ」

と言って帰ってしまい、しばらくして湯から上がった伊原さんが、

濡れ髪をタオルで拭きながら、

「お待たせー。あれ? 細田くんは?」

「なんか、帰りました」

「ふーん。お風呂入っておいで?」

と言って、姉のような、女性の先輩のような、優しい口調と声音で言ったのを、私はずっと忘れないだろう。

なぜならば、興奮したからだ。

風呂から上がると、

伊原さんはもう帰っていた。

すると私は、なぜだか残念な気持ちになった。