なんというか、面倒くさいのだ。
働きたくないのだ。
どういうことか。
つまり、働くということは、なんというか、何かをするということだ。
自分が「何かをしている」と思うとき、人は、「自分が何かをしている」と思わないでいることは、できない。
おや、同語反復のように、聞こえるだろうか。
すなわち、私が述べたいのは、以下のことである。
人は、「自分で自分が社会人だと思っている社会人」にならずに社会人になることは、きわめてむずかしい。
なにを言っているのだ。
たとえば、これは、あらゆるアイデンティティにまつわるすべてが、そうである。
「自分で自分が男だと思っている男」にならずに男になることは、きわめてむずかしい。「自分で自分が日本人だと思っている日本人」にならずに日本人になることは、きわめてむずかしい。否、不可能だ。なぜならば、「社会人」でいることは、「男」でいることは、「日本人」でいることは、さしずめそれが、すべてであり、それでしか、ないからだ。つまり、「自分で自分がそれだと思っている」という状態になってはじめて、それになる。変身するのだ。おや、これは、仮面だ。「社会人」でいることや、「男」でいることや、「日本人」でいることに、本質はない。根拠はない。仮面の本質は、仮面の下ではなく、仮面そのものにあって、それこそが、モチーフの持つ、根源的な力なのだ。そして、仮面とは、なにかを隠すために用いるのではなく、なにかに変身するために、用いるものなのだ。
変身せずに、「それ」になれるか。なれない。で、あれば、変身しなければ、私はいったい何者なのか。何者でもない。私は、私だ。しかし、本当にそうか。
私とは、なんなのだ。が、こうして横になっていると、そんなことも、どうでもよくなってくる。
気持ちが良いのだ。腹も、ふくれている。
心配事も、不安も、なにも、ないのだ。
・・・ふむ。
私は、「自分で自分が社会人だと思っている社会人」に接すると、どうにも、たまらないのだ。
たとえば、彼や彼女らは、けっこう、良い感じなのだ。どういうことかというと、格好良い感じの、服装をしているのだ。スーツとか。
それで、格好良い感じの、話し方をしているのだ。
たとえば、座っているときにそれがしたいのなら、前のめりになって右肘をついて、手を口元にもっていくのだが、手はけっして、口に触れてはならないのだ。口のちょっと手前のところに持ってきていて、なんというか、ちょっと考えている風で、口元に手をやる感じで、それでいてハキハキと、よく通るような声で、しかし大声ではない、ちょうどいい大きさの声で、ちょうどいいむずかしさのことを、ちょうどよく話しているのだ。つまり、知性と品性があるような感じで、話しているのだ。すると、聞いているほうも、「ふんふん」というふうに、いかにも聞いているように、見せている。ほう。それは、見せているだけなのだ。べつに、本当に考えているというわけではないのだ。だがしかし、それが、われわれの、すべてなのだ。それが、仮面。それが、変身。
まあ、それは、いいのだ。自分でも、やってみると、これがけっこう面白くて、くせになるのだ。なぜならば、この「やってる感」ほど人を健康にさせるものは、ないからだ。人は、人に認められると、うれしいし、人にけなされると、かなしい。だから、人は、人の輪のなかに入って、人といっしょに働いて、はじめて、幸福感を得られるのだ。だから、人にわかるように話したり、人に好かれるようにニコッと笑ったりして、しかもそれが成功したりしたら、人は、ぞくぞくするものなのだ。
なんだか、おかしいな。
知性と品性がある感じにふるまうと、人は、なぜだかその人のことを、信用するのだ。
私も、そう。
が、そこに本質というものはない。本質と呼べるものがあるとするならば、それはつねに、仮面のレベルにおいてでしか、ない。
・・・ふむ。
たとえば右手をこう、胸の前にもってきて、あるモットーを唱える。
モットーは、個々人によってちがう。
〈冬来たる〉をかかげる者もいれば、〈炎と血〉をかかげる者もいる。
〈氏神は復讐の女神〉をかかげる者もいれば、〈折れぬ、枉げぬ、まつろわぬ〉をかかげる者もいるし、〈われら種を播かず〉をかかげる者もいる。
モットーを唱えると、人は、そのイデオロギーと同化し、《社会人》に、変身する。
よって《社会人》への変身には、以下のステップが必要になる。
- 自身のアイデンティティを決定づける何かしらのイデオロギーを持つこと。(たとえば『お金より愛』『皆死なねばならぬ』『健康第一』『何事もほどほどに』『ソビエトの復活』なんでもいい。これは、各人のモットーと呼ばれる。)
- モットーを唱えながら、その名をあらわす体をつくること。(つまり、変身ポーズである。これは、人によってちがう。たとえば、一杯のコーヒーの抽出、お気に入りの帽子の装着、ある曲を聴くこと、聖言の朗読など、あらゆるルーティーンや、日頃の習慣がそうである。)
- すると、人は、《社会人》へと、変身する。
- 《社会人》に変身した人間は、自らの名と歌をもつ。名は、名前である。(名を持たぬ社会人は存在しない。=綴じ目のないクッションは存在しない。)歌は、モットーである。(なにかしらのイデオロギーを持たぬ社会人は存在しない。=クッションのない綴じ目は存在しない。)
- 名と歌を持ち、その両者をイコールでむすぶ身体(ポーズ)が開発されたとき、人は、はじめて、自身が持つ労働力を、もっともパワフルなかたちで外部へ向かって発現することができる、《社会人》という名のヒーローへと、変身する。(ちなみに労働力とは、各人が持っている生命エネルギーの総体のことであり、これには量も質も個々人によってかなりバラつきがある。)(→特級術師である乙骨憂太は、その呪力量が他の術師にくらべて桁違い{つねに呪力が最大出力のため攻防力ともに常時マックス}であるが、それを上回るのが六眼を持つ現代最強の術師、五条悟である。乙骨に呪力切れはあっても、五条にはない。それと同じように、各人が持っている労働力の先天的な性質や、その発現の仕方のクセ、といったものが、社会で戦う際の戦局を大きく左右する。もしも底なしの労働力を持つ者がいれば、それは現代最強の社会人となる。)
- 生きるためには、労働力の維持と、再生産と、さらにそれを自身の戦闘スタイルへ昇華させる方法論とが、必要不可欠である。→①どういったモットーを用いて、どんなデザインの仮面をあつらえ、どんな存在に変身するか ②自身の労働力の性質を理解し、それを利用して、どんな能力を開発するか、また、それを用いてどうやって戦うか。
- これが、重要である。
・・・ふむ。
そう考えると、あらゆるヒーロー作品において、英雄が自身の名を名乗るシーンが、とくべつに重要なシーンとして描かれるのも、得心がいくものである。
サノス「私は、絶対なのだ!」
トニー・スターク「そうか、ならば、私は、アイアンマンだ」
(アベンジャーズ エンドゲーム)
「絶対」なる存在よりも、「私」が「私」によって名付けられた固有の歌と名を持つはかない存在のほうが、おそらく、モチーフとして強い力を持っているのだろう。ゆえに、サノスは、アイアンマンに、敗れるのだ。
きっと、そう。
社会に対してヒステリーを起こしている人物は、この意味において永遠に真の社会人にはなれない、のか。なぜならば、「私」が「私」の名において「私」自身を叙任すること。それが社会人の持つ唯一にして最大の英雄的性質であるからして、「俺は好きで働いているんじゃない」「これは本当の私じゃない」と思いながら働いているかぎりは、彼や彼女は、永遠に亡者か囚人、なのか?
きっと、そうだ。
しかし、なぜわれわれは、「自分で自分が社会人だと思っている社会人」にならずに社会人になることが、こんなにもむずかしいのだろうか。
第一に、おそらく、労働時間のせいはあるだろう。
たとえば、週に20〜30分ほどしか働かなくても、家が買えたり、車が買えたり、旅行ができるようになったら、自分の仕事にやりがいを見出す人が、どれだけいるのだろうか。
われわれは、どんな種類の労働であっても、それをするのに、週に何十時間も身体を拘束される。はたらけばはたらくほど、時間はなくなる。が、金は生まれる。労働力の質がわるくても、労働量さえ平均値を上回れば、ほとんどの作業に金銭が発生する。すると、われわれは、なんだか生きているのがもったいない気がしてくるのだ。こんなに何十時間も、よくわからない仕事をして、よくわからないことをしゃべって、それでお金をもらっているのに、それを使う時間は足りないような気がして、なんだかもったいないような気がしてくるのだ。だから、「これはやりがいのある仕事なんだ」ということにする。すると、われわれは、新しいアイデアを思いついたり、その企画を通すための人脈をつくったり、スキルを開発したり、そのはたらいている時間を、少しでも楽しくしようとするのだ。もし週に数分しかはたらかなくても生きていけるのだとしたら、われわれは、はたらくことに、意義を見出すのだろうか。
しかし、第二に、そもそも、人は、もしも週に数分しかはたらかず食っていけたとしても、おそらく、それでは満足せず、けっきょく、人は、自分で新しい仕事を生み出して、なんやかんや労働に従事してしまうのだろう、そして、好むと好まざるとにかかわらず、人は、「自分で自分が社会人だと思っている社会人」になり、《社会人》へと変身する。なぜならば、やっぱり楽しいのだろう、それになることは。