20220623酒⑤

朝起きると、トマトとレタスと豆苗と卵を食べた。運動をしてから、外へ走りにいった。すると私は、満足感を得た。私は走っていった。田んぼが果てしなく広がり、風が吹いていた。土というか、田んぼの匂いがした。私は満足感を得た。見渡すかぎり田んぼで、人がいなかった。建物は、ちらほらと、農協の倉庫や、浄水場の低い建物が見えるだけで、ほかに何もなかった。はるか遠くに、小さくなった車が列になって走っているのが見えた。

帰るとシャワーを浴びて、それから図書館へ行った。図書館は静かだった。図書館には毎日同じ人がいる。私と同い年くらいの、眼鏡をかけたサンダルの男だ。私はこの男を知らない。少なくとも、このような顔の男が、私の小学校や、中学校に、いたことはない、と私は思う。しかし、じっと顔を見たわけではないから、わからない。もしかしたら、私は彼のことを知っているのかもしれない。彼は、いつもパソコンで何かを書いている。もしかしたら、私と同じことをしているのかもしれない。彼は、キーボードを打つ音がうるさい。そして歯の隙間から「シー、シー」という音をひっきりなしに出して、貧乏ゆすりをしている。彼は、図書館のなかで、いつも一番良い席に座っている。窓際の、端の席だ。私もそこに座りたいが、いつもその男が占領している。その席は、外の樹々を見ることもできるし、鳥も見ることもできるし、風も入ってくるから、涼しい。

図書館にはもう一人、毎日いる男がいる。いつもニヤニヤ笑いを浮かべている、寝癖のある太った男だ。彼は腰に鈴をつけて無意味に歩き回っているので、とてもうるさい。そしていつも声に出して本を読んでいる。彼が近づいて来ると、私は必ずイヤホンをつけてその存在を遮断する。

夕方ごろになると、制服を着た女の集団が歓声をあげながらやって来るので、とてもうるさい。すると私は必ずイヤホンをつけて、その存在を遮断する。

18時半になると、廃墟と化したラーメン屋の前で大湊と会って、道を歩いていった。夕日がオレンジだった。私たちはそれを橋の上から見た。「美しいな」と私が言うと、大湊は怪訝な顔をしていたので、彼にはその夕日がモノクロに見えたのだろう。

大湊は薬局で酒を買ってくれた。彼は缶ビールを買い、私は日本酒を買った。私は覚えていなかったが、大湊は私に対して返す借りがあったらしく、その場の支払いを済ませてくれた。私はせめてと思い、買ってくれたものを持って歩いた。そのあとに、橋の上から夕日が見えたのである。

私が間借りしている祖母の家に、着くと、祖母は夕飯の余りだと言って、私たちに刺身や豆腐を出してくれた。すると私は感謝の念をおぼえた。大湊も感謝をしているようだった。

私たちはミスチルを聴きながら酒を飲んだ。『GIFT』が流れてくると、私たちは「虫唾が走る」と言って、それに耳をすませた。しかし、聴いていると、まったく虫唾は走らなかった。大湊がミスチルで一番好きな曲は『掌』だと言ったので、私はそれはNARUTOの忍術で言ったら写輪眼が一番好きだと言っているようなものだと言って、彼を揶揄した。しかしそのたとえは適切ではないのではないかと言われると、私はたしかにそうかもしれないと思った。『掌』がスピーカーから流れてくると、私たちはそれに耳をすませた。

私がミスチルで一番好きな曲は『海にて、心は裸になりたがる』だ。なぜならば、サビで「ウオオオ!」と、獣人のように叫んでいるからだ。ミスチルとは、桜井和寿の念能力を具現化するための相互協力型のパーティフォーメーションだから、その一心同体となったバンドサウンドが、この曲では炸裂しているからだ。

二番目に好きな曲は『Brand new planet』だ。なぜならば、簡素でいて装飾はもらさず、たっぷりとした情感にあふれているからだ。

三番目に好きな曲は『UFO』だ。なぜならば、「冷めかけたスパゲティーをフォークに巻きつけては 甘い憂鬱を噛みしめる バランス取るのはやめて 愛を吐きだしたら つぐんでた 昨日より 胸のつかえはなくなるけど どうかなあ」というサビの歌詞とメロディが、とても好きだからだ。悲しいけど爽やかなコードも、エレキギターの慈愛に満ちた動きも、ベースの孤独な詩情も、涙がこぼれ落ちるようなドラムも、巧みにサウンド化された詩と甘いメランコリックなメロディも、すべてが完全に噛み合っているという気がするからだ。

私は日本酒の瓶を一人で飲んだ。大湊は三缶飲んだ。そして私たちはコンビニにまた酒を買いに行った。しかしそのときそんなにたくさん酒を飲むべきではなかった。なぜならば、それは12時間ほど経ったいまの体調に、確実にひびいているからだ。しかし、これは暖かいひだまりのなかにいるみたいで、気持ちがいい。もしくは、晴れた日にプールでサイダーを飲んでいるような気分だ。

コンビニから帰ると、私は大湊に、自分がラストオブアスをプレイしているところを見せてあげた。操作が異様に上達しているから、誰かに見てほしかったのである。しかし、ほとんど酩酊状態だったため、私はゲームをしていて苦痛だった。大湊も、画面を見ていなかった。

大湊が深夜の2時ころに帰ると、私は皿を洗って、眠った。正気を失うほど酒を飲んでいたが、意識はオートマチックにはたらき、皿を洗い、ごみをまとめ、テーブルをきれいにし、洗濯物を箪笥にしまってから、布団に入って眠った。

起きると、朝だった。

20220620失業者の日記③

母方の祖母が誕生日を迎え、私の母は庶民的なイタリア料理のランチを予約した。私は残念ながら金銭的な面でそれに貢献することができなかったため、せめてムードメイカーの役を買って出た。

社会人が形成するコミュニティには、その規模の大小に関わらず、必ずこのムードメイカーと呼ばれる無銭奉仕の職務が存在する。それは一般的には、たぶん、善意の労働者、寝業師、軽業者、または単なるお調子者、偏執狂、ふしだらな人間、あらゆる依存症者患者などが、多く就労する傾向にある、と思われる。私もその一人だった。レストランのテーブルには、父と、母と、祖母と、妹と、私が座っていた。

私はムードメイカーとしての職務を、立派に果たした。車の運転をして、注文を取りまとめて、皆に存分にアルコールを飲ませた。しかしその結果については、わからなかった。妹は食欲がないと言って、パンの端切れのようなものをいつまでも噛み続けていた。父はワインを飲み続け、注文が来るのが遅いと言って、帰りたがっていた。母は「これで足りるわ。じゅうぶんよ」と言って、一杯のワインを貧しい田舎のネズミのように舐め続けていた。そして彼女は、夫が不名誉な発言をするたびに、じっと黙って、沈黙の音を聞いていた。まるでこれまでずっとそうしてきたみたいに。まるでこれからもずっとそうしていくみたいに。すると私は、(おやまあ)と思った。そして(いけない。彼らを元気にしなくちゃ。)と思った。そして皆にワインを注いだり、料理をよそったり、妹を笑わせたり、祖母に話しかけたり、母に話しかけたり、父の機嫌を取ったりして、家族というプラモデルを、優しさという接着剤で組み上げ、ヒューマニズムというデカールで装飾していった。すると、まんざらでもない出来になった。たしかに、頭は反対の向きだったし、片足のジェットは壊れていた。パーツのところどころが欠けていたし、シールは溶剤のせいでどろどろに溶けていた。しかし、それでもこれが「家族」なのだと思うと、私は、自分が誇らしくなった。たしかに、温かい。家族で食べる御飯は、こんなに美味しいものだったのか。皆の笑顔は、最高のご馳走だ。

すると、黒い服を着た給仕が私の脇を通り過ぎていった。見ると彼の姿はもうなく、テーブルの端に二つ折りにされた伝票が置き去りにされていた。皆が談笑している隙に、そっと開いてみると、それは伝票ではなかった。死神の請求書だった。

死神は、それが人工物の概念である以上は、われわれ人間に、何かしらの対価としての支払いを要求する。それは私個人に当てられた請求書ではなかったが、それを開いたのは私だった。私は、おそらくこれは、われわれ家族に当てられた請求書なのだろう、と推察した。

たとえばあるところに、ひとりの女がいて、20代の半ばで男と結婚し、元気な子をもうけたとして、彼女は生まれてきた子を愛し、夫とともに家庭を維持し、その子の成長を見届けてきた。

甘えて足元にじゃれついてくる、小さくて不可思議な生き物だった子どもは、やがて思春期を迎えて、不可解な生き物へと変貌した。それでも女にとっては、それはまだ自分の子だった。やがてその子どもが大人になると、女は自分の子どものことが理解できないと感じるようになった。そしてそれは子どもにとっても同じだった。それでも女にとっては、その人間はまだ自分の子だった。

しかし女は40〜50代の半ばでついに気づいた。子どもに費やした時間は、今ではすべては過ぎ去ってしまった。子どもは大きくなった。それはとても嬉しく、悲しいが、喜ばしいことだった。この子の元気な姿を見ることが、この先もまだ少しだけ続いてさえくれれば、それ以上の幸せなどあるだろうか。

しかし女はこう考えることだろう。「私は何が気にかかるのだろうか。何を忘れているのだろうか」。そして女の目の端には、つねに何かがちらちらと動くのが見えていたことだろう、と思う。たぶん、それはきっと何かしらの明細だったと思う。そしてその明細を解読するには、おそらく人生の、一生分の時間がかかるのだと思う。そして女はその時間を、ほとんど子どもに費やしてしまったのだと思う。

そのとき、テーブルの端の請求書を開いた私にも、その明細は読めなかった。それは解読するのに一生分の時間がかかるからだと思う。だから私は席を立って、洗面所へ行って、冷たい水で顔を洗った。すると、鏡の向こうに、ふと、さっきの黒い服を着た給仕が横切っていった。私はあわてて後を追ったが、曲がり角を曲がる手前で身体が固まり、動かなくなった。

実際は、そのようなことは何ひとつ起こっていなかった。

しかしその給仕は、曲がり角の向こうから、私に向かって、きっとこのようなことが言いたかったのだと思う。

「人間は、ただ生きているだけでは、足りない。善く生きようとするだけでは、もっと足りない。強く、気高く生きようとするだけでは、もっともっと足りない。人間は、すべての例外なく、死神によって命あるいは、それ以外の何かを請求される。そして人間は、自らに突きつけられた請求の明細を、無視も、保留もできない。もしも運良くいずれかを行うことができたとしても、そのツケは生きているあいだに、必ず回ってくる。そしてそのとき、多額の何かを支払わなくてはいけなくなる。ちなみにこの請求書の精算を回避するためには、人間は自死を選んでもなお足りない。もしもそれが可能になるとしたら、生まれてくる前に戻り、自らの種を絶やすしかない。しかしそれが可能になったとしても、その行為をおこなったという事実を、きっとどこかで精算しなくてはいけなくなる。

その女は、20代の半ばで子どもを産み、育てた。しかしそれだけでは足りなかった。どれだけ子どもを愛しても、その子どもは自分自身ではなかった。母親にとっては、その子どもは自分自身と同義だったとしても、その子どもは、母親とは違う生き物だった。そして40〜50代の半ばで、女は自分の人生が目の前に広がっているのに気づいた。それは完全にひとりぼっちの世界だった。女は20代の半ばに請求された明細を、何十年も保留し続けてきた。女は20代の孤独から逃げた。女は20代の自分と向き合うことから逃げた。しかしそれは、ある観点では、たしかに女の勇気と英断だった。だが、それだけでは足りなかった。それだけでは、じゅうぶんな支払いに値しなかった。子どもが小さいときは良かった。子育てに忙殺されていれば、仕事に夢中になっていれば、あらゆる死を招く請求の明細から目をそらすことができた。しかし何十年も経ったあと、これまで保留し続けてきた孤独と絶望が、ツケになって女の人生に回ってきた。ではどうすれば良かったのか。そう問うても、死神の請求書にはこう書いてあるだけだ。『さっさと死ね』。その文書には、『今日ではない』と返すのが、いまでは一般的な、ある種の社会的なしきたりになっている。ところで女の子どもは、ある人物は女と同じように子をもうけ、人間をまた一人か二人、増やすだろう。また別の誰かは子をもうけず、孤独に、自分の人生に没頭するだろう。だがそのようにして自分の人生に没頭したとしても、それだけではまだ足りない。人はどう生きて、何に熱中しても、その結果でどんな偉業を成し遂げても、この自己破産も許されない巨額の請求を前には、いかなる支払いにも値しない。どのように生きても、どれだけ頑張っても、すべての人間には、いずれ最悪の状況がやってきて、その状況を前に個々人が選択を迫られることになる。それが、この世界の基本的な決まりごとなのだろう」

しかし実際の給仕は、私の予想に反してこのようなことを言った。

「私を追いかけるのは、やめてください」

すると私は途端に色めきだって、「請求書を突きつけてきたのは、そっちでしょう」と言った。彼は「請求書なんて突きつけていません。ありもしないことで私を責めるのはやめてください」と言った。すると私はますます腹を立てて、「じゃあさっきの紙切れは何ですか。請求書を私に送ってくるのはやめてください。私の家族にもです。私たちを引き裂くのはやめてください」と言った。私は空中にはりつけにされたまま、わめいていた。「放してください。姿を見せてください」。すると曲がり角の向こうの声が近づいてきて、「でもお宅の食事の風景を拝見していましたが、こちらが引き裂く以前に、仲良く結束しているようには見えませんでしたよ」と言った。私はそれを聞くと、やや狼狽して、「でも家族ってそんなものでしょう。どこか欠けていたり、あるいは余っていたり。でもそういうツギハギだらけの関係が、たまらなく愛おしいんです」と言った。しかし顔は反対に、ニヤニヤとしていた。しかし実際はこのようなことは起こっていなかった。

20220617失業者の日記②

失業保険を受給するために、公共職業安定所が催す雇用保険説明会へと出席した。家を出て、歩いていった。駅へ着くと、切符を買って、信越本線に乗り、東三条駅弥彦線に乗り継ぐと、燕三条駅で降りて、道を歩いていった。

会場に早く着いたので、近くにあった喫茶店のようなものに入ると、そこは喫茶店ではなかった。奥のカウンターに通され、ナイフとフォークとナプキンが置いてある大理石のテーブルに連れていかれた。それからコース料理の書いてあるメニューを渡された。私が喫茶店と間違えたと言うと、給仕の女は「そうですか?」と言って、なぜか目立たない席に連れていってくれた。私はそこへ座り、コーヒーを頼み、飲んで、時間をつぶしてから、会計をすると、給仕の女が「お食事は外で済まされてきたんですか?」と言った。私は「そうだ」と答えたが、金がないから昼食は食べていなかった。店を出ると、歩いていった。

建物に入り、エレベーターで七階へ行くと、会議室のような場所に、失業者が詰めかけていた。受付の女たちが「受付はこちらです」と言って、声を荒げると、皆がいっせいにそこへ押しかけた。受付を済ませてから、資料の置いてあるテーブルに座ると、『雇用保険受給資格者証明書』と書いてある紙切れを読んだ。それから、『失業認定申告書』と書かれている紙切れも読んだ。それから、説明会がはじまるまで、ほかの資料などを読んで過ごした。やがてマイクを持った小柄な女があらわれると、挨拶をして、押しつけがましい匿名的な音声で喋りはじめた。彼女は「お手元の資料をお読みください」と言って、そこに書かれていることを声に出して、ひとつずつ、ひとつずつ、読みあげていった。そしてつっかえたり、読み間違えたりするたびに、「失礼しました」と言って、また続きを読みはじめた。彼女は資料に書いてあることと一字一句同じことを言っていた。そしてつっかえたり、読み間違えたりするたびに、「失礼しました」と言って、また続きを読みはじめた。失業者たちはその女の声を聞き、その女が読み上げる文章を読み、あっちのページをめくったり、こっちの用紙をめくったりしていた。彼女は最後まで、資料に書いてあることと一字一句同じことを言っていた。そしてつっかえたり、読み間違えたりするたびに、「失礼しました」と言っていた。

それからその女の話が終わると、交代するように別の細身の女が出てきて、マイクを受け取ると、挨拶をしてから、小慣れた感じの公共的な音声で喋りはじめた。少なくとも彼女は、先ほどの小柄な女とは違い、書いてあることをそのまま読み上げることはしなかった。しかし途中で、失業者の一人が「求職番号とは、どこに書いてあるのですか」と大きな声で聞くと、彼女は途端に狼狽して、マイクの電源を切って、その男のテーブルのもとへ小走りで駆け寄っていった。そして男の耳元でこそこそと答えを教えると、また走っていって前へ戻り、マイクの電源を入れて、何事もなかったかのように喋りはじめた。そしていきなり「ビデオを流しますので、失業者の皆さんはこれを見てください」と言って、厚生労働省が作成した教材ビデオのようなものを流しはじめた。気づくと、女はすでにどこかへ去っていた。ビデオが終わると、いつの間にか女がそこに立っていて、「私の方から、ビデオの補足説明をします」と言い、ビデオで言っていたこととまったく同じことを話しはじめた。そして次の瞬間、いきなり「これで終わります」と言って、消えた。失業者たちは、急にその場に取り残され、呆気にとられたような顔をしていた。しばらくすると、失業者たちはまた散り散りになり、各々の帰路へとついていった。私は建物を出て、歩いていくと、駅へ行って、電車を待った。電車に乗ると、乗り換えの駅で、ベンチに座って次の電車を待った。すると、隣のベンチに座っている制服の女が、「痛い」とか「電車」とか、ぶつぶつと独り言を言いながら、スカートを捲り上げたり、背中を掻きむしったりしていた。電車に乗ると、制服を着た男や、女たちが、窓の外の景色を眺め、笑い合っていた。

20220616愛と義務

ウェスタロスの暦はエイゴン・ターガリエン一世により七王国が成った年を紀年として数えられており、征服前(BC)と征服後(AC)で表される。下記の覚書は『氷と炎の歌』および『炎と血』からほとんど引用されるものである。

エイゴン征服王はBC27年、ドラゴンストーン城で生まれた。城主エイリオン・ターガリエンと、ヴァレイナ・ヴェラリオンとの間の第二子である。

エイゴンには血を分けた二人の姉妹がいた。姉ヴィセーニアと妹レイニスである。『ターガリエン家には近親婚の習慣があり、伝統に従えばエイゴンは姉のヴィセーニスとだけ結婚するしきたりだったが、彼は二人とも妻に迎えた。一説によれば、エイゴンはヴィセーニアとは義務から、レイニスとは色欲から結婚したと言われている』。

『姉ヴィセーニアはエイゴンその人に匹敵するほどの戦士であり、絹の衣と同じくらい環帷子を好んで着ており、ヴァリリア鋼の長剣の扱いにも長けていた』。『ターガリエン家特有の金銀の髪と紫色の瞳を持つ美貌の持ち主であり、苛烈で激しい性格だった』。厳格で生真面目、容赦のない人だったとも言われているらしい。

『妹レイニスは姉とは正反対の性格で、陽気で好奇心旺盛で気まぐれであり、とりとめない空想にふける癖があった』。『根っからの戦士ではなく、音楽や踊りや詩を愛好し、多くの吟遊詩人や役者、人形遣いを後援した』。しかし彼女が何よりも愛したのは、メラクセス(彼女の竜)の背に乗り飛翔することだったといわれている。一説によれば、彼女は生前に “いつか日没海をこえて、地図に載っていない西の海の向こうの陸地に何があるのか、見に行くつもりだ” と周囲の人間に公言していたらしい。とんだ夢想家だ。

エイゴン征服王はこの姉妹とともに三体のドラゴン(バレリオン、ヴァーガー、メラクセス)を手繰り、六王国を武力によって征服、次いでドーンを政略結婚により支配、大陸ウェスタロスに七王国を建立した。そのおよそ300年後、滅亡したターガリエン家の生き残りの少女であるデナーリスが、絶滅したと思われていた三体のドラゴンを孵化させ、万の軍勢を率いて玉座奪還のためウェスタロスへと渡来した。

ちなみに、このエイゴンの姉妹の正反対な性質は、史実に多く見られるターガリエン家の両義的な気質そのものを、どこかあらわしているようにも思える。たとえばそれを裏付けるに、AC315~320年頃?、元〈王の楯〉総長であるバリスタン・セルミーが、約束の女王デナーリス・ターガリエンに向けてこのように述べたことがあった。

「ターガリエン家の人々がつねに狂気にあまりに近いところでダンスしていたことは、どんな子供でも知っています。お父上が最初ではありません。ジェヘアリーズ王はかつてわたしにいいました−−−狂気と偉大さは同一のコインだと。ターガリエンの子が新しく生まれるたびに、神々がコインを空中に放り投げて、それがどのように地上に落ちるか、世界の人々は息をつめて見守るのだと、かれはいいました」

ちなみにエイゴン・ターガリエン一世その人は、文献によれば、その同時代人にとってもわれわれと同じくらい謎に満ちた人物であったらしい。『ヴァリリア鋼の剣〈黒き炎〉を帯び、当代最強の戦士に数えられながら、武勲に喜びをおぼえることはなく、馬上槍試合や模擬合戦にもけっして参加しなかった。〈黒い恐怖〉バレリオンを騎竜としながら、飛ぶのは戦に行くときか、急いで陸と海を越えるときだけだった。その堂々とした佇まいは人々を彼の旗の下へ集わせたが、親しい友はおらず、唯一オーリス・バラシオンだけが幼少からの盟友だった。女たちは彼に惹かれたが、エイゴンは生涯変わらず姉妹に忠実だった。王としては小評議会と姉妹に満幅の信頼を置き、日々の国政はあらかた彼らに委ねていた……しかし必要とみるや指揮を執ることもいとわなかった。反逆者や裏切り者には厳しく対処したが、忠誠を誓うかつての敵には寛大だった』。

われわれはこれによく似た人物を、もしかしたら彼のほかにもう一人、知っているかもしれない。それはAC315~320年頃?(正確な年がわからない)、七王国に現れた一人の男だ。彼は征服王その人と同じ〈エイゴン・ターガリエン〉という名を冠していた。この〈エイゴン・ターガリエン〉と呼ばれたふたりの男は、300年の時を超えて〈鉄の玉座〉の創造と破壊に立ち会った。(正確には、彼らのあいだに広がる失われた王朝の歴史のなかで、エイゴンと呼ばれる男は、ふたりのほかにあと六人ほど存在しているようだ。しかしこの最初のエイゴンと、最後のエイゴンが、〈鉄の玉座〉の物語の始点と終点とに、まるで呼応するかのように居合わせていることは、まぎれもない事実である。それは、とても不思議なことだ。私は、これは単なる偶然ではないと思う。私はこう思う。最後のエイゴンは確かに〈壁〉の向こうに消えた……〈壁〉の向こうは人知の及ばぬ言語以前の暗夜である(現に“死”はそこから来る)……そこでは、この世界と違う時空間が流れていても、何ら不思議ではない……とすればつまり、このふたりのエイゴンは、物理的に、同一人物だったのではないだろうか……? しかしこれは安易な空想に過ぎないと思う。)

ちなみに七王国の物語では、ここでも見られたように、遠く隔たった二つの点が繋がり、既視感のある星座を形成するという不思議な現象が、よく見られる。例を挙げ出したらきりがないが、たとえば上記のエイゴン征服王にまつわる文献に登場するバラシオン家も、ターガリエン王朝の創造と破壊に立ち会ったふたりの男を輩出している。征服王の年、バラシオン家のオーリスはターガリエン家の旗主となり、同家がウェスタロスに君臨するための足がかりを作ったが、ちょうどその300年後、反乱によってその足がかりを外し、ターガリエン王朝を滅亡させるきっかけを作ったのも、このバラシオン家のロバートなる人物である。ちなみにこの二人は、よく似ている。どちらも黒い顎髭をたくわえ、戦鎚を振り回し、名誉と誇りを重んじる生まれながらの戦士であったそうだ。人は実際に、誰かの何回目かの人生を生きているのだろうか……? 不思議だ。しかし騎士の歌物語と歴史を混同してはならない。

バラシオン家は、ターガリエン家やスターク家、ラニスター家やマーテル家などの、伝説上の英雄時代から続く各々の大名家に比べると、かなり歴史が浅い。数えると、紀元前一年以内から始動する名家だろう。ほかの大名家は紀元前一万年ほど続いているものもあるので、まったく年数が違う。バラシオン家はオーリスの代でデュランドン家の紋章と標語(『氏神は復讐の女神』)を受け継ぎ、雄鹿の旗印を掲げることになった。このオーリスなる人物は、エイゴン征服王の庶出の異母兄弟だったと言われている。征服王がオーリスを『わが盾、わが忠臣、わが協力なる右手』と宣言したことにより、今ではバラシオン家こそ最初の〈王の手〉であるとする学説が有力である。とすれば……神々が揺らした鎖のもう一端に居合わせたロバート・バラシオンの、何と奇妙な生涯だったことだろう。

若きロバート・バラシオンは、許嫁であるリアナ・スタークを愛していた。リアナは花のように美しく、気丈で勇敢で、きっとそれ以上の優しさを持ち合わせていたことだろう。しかしこれは私の想像なので、正直わからない。青年ロバートはリアナを愛し、彼女もまた彼と結ばれることを望んでいるように思われたが、彼女にはどこか、捉えどころのない危険な純真さのようなものがあった。しかしこれも、私の想像だ。なぜならば、ロバートやリアナなる人物の青年時代を細かく知るための資料が、あまりないからだ。

そして狂王エイリスの治世の時代、事件が起こる。第一王子であるレイガー・ターガリエンがリアナ・スタークを誘拐、強姦の末に殺害してしまうのである。

王都へ抗議のため参上したスターク家の当主リカードとその長男ブランドンも狂王によって無実の罪で処刑され、激怒したロバート・バラシオンとネッド・スタークはふたりの共通の里親でもあるジョン・アリンとともに反乱軍を形成、戦況は一時膠着状態となったが、やがて中立を貫いていたラニスター家のタイウィンが王国軍を裏切って王都へ攻め入ると、形成は一気に逆転し、戦争は反乱軍の勝利となった。狂王エイリスは一人の近衛兵に殺され、肉の塊になった。

そのようにして300年続いたターガリエン王朝は失われた。太子レイガーの子らはまだ乳飲み子だったが、壁に頭を打ちつけられて殺された。レイガーの弟妹であるヴィセーリスとデナーリスは、国土を永久に追放された。

その後〈鉄の玉座〉には、ロバート・バラシオンが座った。ターガリエン家でない者がそれに座るのは、歴史上初めてのことだ。

狂王エイリスを殺したのが、〈王殺し〉〈誓約破り〉で有名な、あのジェイミー・ラニスターである。彼はいつしか、下記のように告白していた。

「そうだよ。おれは、あわれな困り者エイリス・ターガリエンを殺害した誓約破りだ」ジェイミーは鼻を鳴らした。「しかし悔やんでいるのはエイリスのことではなく、ロバートのことだ。“人はおまえを〈王殺し〉と呼ぶそうだな” かれは戴冠式の祝宴で、おれにそういった。“それを習慣にしようとは考えるなよ” と。かれは笑った。なぜ、だれもロバートを誓約破りと呼ばないのか? かれは国をばらばらに引き裂いた。それなのに、名誉を汚したのはおれだなんて」

「ロバートがやったことはすべて愛のためでした」ブライエニーの足から湯が流れ落ち、足の下に溜まった。

「ロバートがやったことはすべて誇りのため、女のあそこのため、美しい顔のためだった」

かれは拳を握った……いや、握ったことだろう、もし手があったら。痛みが、残酷な笑いのように、腕を突き上げた。

「かれは国を救うために出陣したのですよ」彼女はいい張った。

“国を救うため、ねえ”

「きみは、おれの弟がブラックウォーター河に火をつけたことを知っているか? 炎素は水の上でも燃える。エイリスはその気になれば、それに浸かったことだろう。ターガリエン家はみんな火炎に夢中になるんだ」ジェイミーは頭がくらくらするのを感じた。 “頭の中に熱がある。血の中に毒がある。熱病の末期だ。おれは正常ではない” かれは湯が顎につくまで、ゆったりと沈んだ。「白いマントを汚した……あの日、おれは黄金の甲冑をつけていた。しかし……」

「黄金の甲冑?」彼女の声が遠くで、かすかに聞こえた。

かれは熱の中に、記憶の中に漂った。

「鐘の合戦で、踊るグリフィンの軍勢が破れたとき、エイリスはロバートを追放した」 “なぜおれは、こんな滑稽な醜い子供に話をしているのか?” 「ロバートはもはや気まぐれに押しつぶすことができるような単なる逆徒の貴族ではなくて、デイモン・ブラックファイア以来ターガリエン家が直面した最大の脅威であると、エイリスはついに理解したのだった。エイリス王は不作法にもエリア・マーテルを捕らえているとルーウィン・マーテルに念を押し、〈王の道〉をのぼってくる一万人のドーン人の指揮を執れといって送り出した。ジョン・ダリーとバリスタン・セルミーがグリフィンの兵士をできるかぎり再結集させるために、石の聖堂にかけつけた。そして、プリンス・レイガーは南部から戻ってきて父親に、誇りを捨てておれの父タイウィンを呼び出せと説得した。しかしキャスタリーロック城から使い鴉は戻ってこなかった。それで、王はますます恐怖心を抱いた。かれはいたるところに謀反人を見た。そして、側近のヴァリスはかれが見過ごしたかもしれない謀反人をつねに指摘した。そこで王は家来の錬金術師たちに命じて、キングズ・ランディングのいたるところに炎素の貯蔵所をもうけさせた。ベイラー大聖堂の地下、蚤の溜まり場の物置小屋、厩舎や倉庫の下、七つの門のすべて、赤の王城そのものの地下にも。

ほんのひと握りの火術師の賢者の手で、極秘のうちにすべてが行われた。かれらは助手にも手伝わせなかった。王妃の目は何年も閉じられたままで、息子のレイガーは軍隊を整えるのに忙しかった。しかし、エイリスの新しい懐刀である〈王の手〉は完全に馬鹿者というわけではなかった。だから、ロッサート、ベリス、ガリガスなどが昼夜を問わず出入りするのに疑いを抱いた。チェルステッド、そうだ、かれの名前はチェルステッドだった。チェルステッド公だ」この記憶は話しているうちに、突然蘇ったのだった。

「かれは臆病者だとおれは思っていたが、やつはエイリスと対決した日にはどこからか勇気を引き出していた。かれはエイリスを思いとどまらせるために、できるだけのことをした。理を説き、冗談をいい、脅迫し、そして最後に懇願した。それが失敗におわると、かれは役職の首鎖をはずして床に放り出した。そのため、エイリスはかれを生きたまま焼き殺し、その首鎖を、お気に入りの火術師ロッサートの首にかけた。こいつはリカード・スターク公を、着ている鎧の中で料理した男だ。その間じゅうずっと、おれは白い板金鎧をつけて〈鉄の玉座〉の下に立っていた。死骸のように静かに、君主とそのたいせつな秘密を守って。

こうして、同僚の〈王の楯〉はみんな出払っていったが、エイリスはおれをそばに置きたがった。なにしろ、おれは父の息子だったから。かれはおれを信用しなかったのだ。昼も夜もヴァリスの目の届くところにおれを置きたがった。だから、おれはすべてを聞いたのさ」ロッサートが炎素を置かねばならぬ場所を示す地図を開くたびに、その目がどんなに輝いたか。」ジェイミーは思い出した。

ガリガスとベリスも同様だった。レイガーは三叉鉾河でロバートと対戦した。その結果どうなったか、きみも知っているだろう。宮廷に知らせが届くと、エイリスは急いで王妃をプリンス・ヴィセーリスとともにドラゴンストーン城に送り出した。プリンス・エリアも行くはずだったが、かれはそれを禁じた。どういうわけか、プリンス・ルーウィンが三叉鉾河で裏切ったにちがいないと思い込んでいたのだ。しかし、エリアとエイゴンをそばに置いておくかぎり、ドーンを味方に留めておけるとかれは考えた。「謀反人どもが、おれの町を欲しがっている」とかれがロッサートにいっているのを、おれは聞いた。「だが、かれらには灰しかやるつもりはない。ロバートを、焦げた骨と焼けた肉の上に君臨する王にしてやるぞ」と。ターガリエン家は死者を決して埋葬せずに火葬にした。エイリスはかれらのすべてを最大の火葬の薪にするつもりだった。しかし、実を言うと、かれが本当に私を予想していたとは信じられない。かつての〈燃えさかる炎のエリオン〉と同様に、エイリスは火が自分を変容させると思った……ふたたび蘇ってドラゴンとなり、敵のすべてを灰塵に帰すると。

ネッド・スタークはロバートの前衛部隊とともに急いで南下してきたが、おれの父の軍勢が先にその町に到達した。〈西部総督〉が王を守るためにやってきたとパイセルが確信させたので、エイリスは城門を開いてしまった。このときばかりは、かれはヴァリスの意見に留意すべきだったが、かれを無視してしまった。おれの父はエイリスが自分に対して行ったすべての不当な行為を根に持って、この戦から身を引き、ラニスター家は勝ち馬に乗るべきだと思い定めた。三叉鉾河の合戦がかれに決心を固めさせた。

おれは赤の王城の防衛を任されたが、これは負け戦だとわかっていた。それで、エイリスに使いを送って講和の許可を求めた。エイリスは、「もしおまえが謀反人でなければ、おまえの父親の首をおれに届けろ」といって、絶対に引かなかった。ロッサート公がそばについていると、うちの使者がいったが、それがどういう意味か、おれにはわかった。

ロッサートを見つけたとき、かれは普通の兵士の服装をして、裏門に急いで行くところだった。おれはまずかれを殺した。それから、エイリスが火術師どものところに送る別の使者を見つけ出す前に、エイリスをも殺した。何日か後に、他の者たちをも探し出して、やはり殺した。ベリスは黄金を差し出し、ガリガスはお慈悲をと泣きついた。まあ、火よりも剣のほうが慈悲深いが、ガリガスはおれが示した優しさをあまり評価したとは思えないな」

湯が冷めてしまっていた。気がつくと、ジェイミーは自分の右手を見つめていた。 “おれを〈王殺し〉にした手だ” あの〈山羊〉がジェイミーの栄光と恥辱を、二つとも同時に、奪ってしまったのだった。 “後に何が残ったか? 今、おれは誰なのか?” 

詳しく記されていて、嬉しい。

戴冠後のロバート・バラシオンがどういった運命を辿ったかは、別の文献で知ることができる。彼は玉座の冷たさと王冠の重みで徐々に精神を病み、魂と肉体を腐らせ、孤独に死んでいった。玉座を手に入れてからおよそ15年後のことである。彼は生前、いつしか自身の〈王の手〉でもある盟友ネッド・スタークを相手に、このように述べていたことがあった。

「飲め」かれはぶっきらぼうにいった。

「喉は渇いておりません---」

「飲め。おまえの王が命令しているのだ」

ネッドは角杯を受け取って、飲んだ。ビールは黒くて濃くて目にしみるほど強かった。

ロバートはまた腰を下ろした。「ちくしょう。ネッド・スターク。きみとジョン・アリンを---おれはきみたち二人を愛していた。きみたちはおれに何をした? きみたちは王になるべき人物だった。きみかジョンが」

「あなたのほうがより権利がありました。陛下」

「飲めといったが、議論しろとはいっていない。きみたちはおれを王にした。だから、少なくとも、おれがしゃべっているときには、聞くだけの礼儀をわきまえてもらいたい、いいな。おれを見ろ、ネッド。王であることが、おれにどんな作用を及ぼしたか見るがいい。ちくしょう、太りすぎて鎧が着られない。いったいどうして、こんなことになったんだ?」

「ロバート……」

「黙って飲め。王が話しているのだぞ。いっておくがなあ、この王位を勝ちとろうとしていたときほど、おれが生き生きしていたことはなく、それを手に入れた今ほど、生気がなくなったこともない」

「秘密を教えよう、ネッド。一度ならず、おれはこの王冠を捨てようと夢見た。船に馬と戦鎚を積んで自由都市に行き、戦争と女郎買いに憂き身をやつす。それがおれの転職なのさ。傭兵たちの王さ。吟遊詩人たちがどんなにおれを愛してくれることか」

「おい、おれはエイリスよりもましな王だといって、この話題にけりをつけてくれよ。きみは愛や名誉について決して嘘がつけないんだなあ、ネッド・スターク。おれはまだ若い。そして、きみがこうして来てくれたのだから、事情は変わるだろう。この二人で、歌にうたわれるような統治をしようじゃないか。ラニスター家なんぞ地獄に落ちるがいい。ベーコンの匂いがするぞ。今日のチャンピオンはだれになると思う? メイス・タイレルの息子を見たか? 〈花の騎士〉と世間では呼んでいる。世の中には、父親であることが誇りになるような息子がいるものだ。この前の馬上槍試合で、かれは〈王殺し〉に黄金の尻餅をつかせたが、あのときのサーセイの顔を見せたかったぞ。おれは笑いすぎて脇腹が痛くなった。レンリーがいうには、かれには一人の妹がいるそうだ。十四歳の乙女で、夜明けのように美しいとか……」

かれらは川岸にしつらえた架台テーブルで、黒パン、鵞鳥のゆで卵、玉葱とベーコンを添えた魚のフライを、朝食として食べた。王の憂鬱な気分は朝露とともに消えていった。まもなくロバートはオレンジを食べながら、かれらが子どものころに過ごした高巣城での、ある朝の思い出話を始めた。「……ジョンに一樽のオレンジを贈った。覚えているか? 残念ながら、中身は腐ってしまっていた。そこで、おれがテーブル越しに自分のオレンジを投げると、ダックスの鼻にまともに当たった。覚えているだろう、レッドフォードのあばた面の従士さ? やつはおれに投げ返してきた。そして、ジョンが屁もひらないうちに、大広間の四方八方にオレンジが飛び交うありさまになったっけ」かれは腹をかかえて笑い、ネッドさえも思いだして顔がほころんだ。

これこそ、自分と一緒に育った少年だ、とかれは思った。これこそ、自分が知っており、愛してきたロバート・バラシオンだ。

しかしロバート・バラシオンは死んだ。ワインでベロベロになり、狩りで突きを誤って、反対に猪に串刺しにされたのだ。彼は、あんなに愛したリアナ・スタークの顔を、もう思い出せないのだと言って、泣きもせず、乾いたうつろな目をして、ただワインを飲み続けていた。可哀想だ。栄光に満ちた反乱劇の結末が、これか?

彼の死後、継承権を主張し、王位を請求した人物は、ウェスタロスに五人いた。そのうちの一人であるスタニス・バラシオンは、〈鉄の玉座〉について、かつてこのように述べていたことがあった。

「きみは〈鉄の玉座〉を見たことがあるか? 背もたれには逆刺が植わっているのだ。捻じ曲がった鋼鉄のリボン。剣とナイフを全部絡み合わせて溶かしたぎざぎざの尖端が突き出ているのだぞ? 座り心地のよい椅子ではないぞ。エイリスがあまりしばしば切り傷を作るので、人はかれを〈かさぶた王〉と呼んだ。そして、メイゴル残酷王はあの椅子にすわっていて殺された。あの椅子によってだ。人の噂ではな。あれは人が安楽に休むことができる座椅子ではない。どうしてわたしの兄弟があんなにあれを欲しがったか、わたしはしばしば不思議に思うのだ」

「ではなぜ、あなたはそれを求められるのですか?」ダヴォスはたずねた。

「欲求の問題ではない。王位はわたしのものだ。ロバートの跡継ぎだからな。それが法律だ。わたしの後は、わが娘に継がせなければならない。結局、セリースが息子を産んでくれなければの話だが」かれは三本の指を軽くテーブルに当てて、年月のために黒ずんだなめらかな固いニスの層をなでた。「わたしは王である。これに欲求は入らない。娘に対する義務がある。王土に対しても、ロバートに対してさえも。わたしをほんの少ししか愛してくれなかったことは、わたしも知っている。だが、かれはわたしの兄だった」

スタニス・バラシオンは原理主義的な異教を崇める危険人物で、鉄でできているような男だった。律儀で窮屈で、気難しく、冗談も通じない。そしていつもげっそりと疲れた顔をしていて、ありもしない使命に忙殺されている。やることなすことすべてが裏目に出て、誰からの信頼も得られず、〈光をもたらすもの“ライトブリンガー”〉と名付けられた燃えさかる剣を半ば自暴自棄になって振り回しているが、これがただの鉄屑であることは自分でもわかっている。善人ではないが、好人物だ、と私は思う。なぜならば、徒労に満ちているのに、ほかの方法を模索しようとしない……『こうでしか生きられない男』として、彼はその生涯を全うしたからだ。しかしなぜ、スタニスは異教に魅せられたのだろうか?

スタニスと異教の迷信的な関係については、彼の側近であった〈紅の女祭司〉メリサンドルが彼をたぶらかし、狂気の王に仕立て上げてしまったというものが、いまでは歴史の共通認識となっている。メリサンドルは〈光の王〉という一神教を信奉し、呪術に長け、股のあいだにある温かい穴にスタニスを誘い込んで、彼をあやつったと言われている。スタニス王は彼女の火に魅せられ、謎めいた運命を信じ込み、七神正教の像を燃やしたり、近親者を火炙りにしたりして、わけのわからない旅路を突き進むことになった。

しかし私は、メリサンドルに悪気があったわけではない、と、いまでは思う。なぜならば結果的に、歴史のあらゆる転換点にいたのは、彼女のような異教徒や、落とし子、奴隷や娼婦、障害者、宦官、道化、または臆病者、異常性愛者や、とりわけ醜い者など、生来の権利を剥奪された『壊れた者たち』だったからである。メリサンドルは、やがてスタニスを率いて〈壁〉の戦争に加わった。それは玉座をめぐる俗世の戦争ではない、生者と死者の権利をめぐる、究極の戦争だった。結果的に、メリサンドルはその“長き夜の戦い”のなかで奇妙な立役者となり、歴史に名を残すことになった(と思う)。この地上の人間世界を救ったのは、発狂した異常者であるメリサンドルだった、と言っても過言ではないだろう。

加えてこの七王国の無数の群像劇をある一言で要約するには、彼女がダヴォス・シーワースに向けて述べた下記のような発言がきわめて有用になると思われる。

「わたしに何を見せたいのだ?」

「世界が作られるさまを。真理はあなたのまわりに充満しています。見れば、はっきり見えます。夜は暗く、恐怖に満ちており、昼は明るく、美しく、希望に満ちています。片方は黒く、片方は白い。氷があり、炎がある。憎悪と愛が。男と女が。苦痛と快楽が。冬と夏が。悪と善が」彼女はかれに一歩近寄った。

「死と生が。いたるところに反対物が。いたるところに戦いが」

「戦い?」ダヴォスはたずねた。

「戦いです」彼女は肯定した。

「二つのものがあるのですよ、〈玉葱の騎士〉さん。七つでもなく、ひとつでもなく、百でも千でもありません。二つです! ・・・」

メリサンドルが上記のように述べるように、この七王国の歴史は、次のような一言で要約することが可能なように思われる。すなわち「相反する二項対立の相克でぶち果てる人間の群像劇」であると。

その物語は、『氷と炎の歌』と呼ばれている。そして私は、この物語における究極の対立とは、生と死でも、男と女でも、氷と炎でもなく、愛と義務の対立だったのだろうと、考えている。

いつしか、〈冥夜の守人“ナイツウォッチ”〉へと加入した運命の落とし子ジョン・スノウは、白齢の賢人メイスター・エイモンから、下記のようなことを述べられたことがある。

「ジョン、〈冥夜の守人“ナイツウォッチ”〉の兵士がなぜ妻を持たず、子供をつくらないか、不思議に思ったことはないか?」メイスター・エイモンはたずねた。

ジョンは肩をすくめた。「いいえ」

「愛さないためだ」老人は答えた。「なぜなら、愛は名誉を破壊し、義務を殺すからだ」

これは正しいとは思えなかったが、ジョンは黙っていた。メイスターは百歳で、〈冥夜の守人“ナイツウォッチ”〉の高官だ。かれはそれに反論するような身分ではなかった。

その老人はかれの疑惑を感じとったようだった。「なあ、ジョン、教えてくれ。万一おまえの父上が名誉かまたは愛する人たちか、どちらかを選ばなくてはならない日がきたら、かれはどうするだろうか?」

ジョンはためらった。そして、エダード公はたとえ愛のためであっても、決して自らの名誉を汚さないだろう、といいたかった。だが、心の中で陰険な小声がささやいた。“かれは私生児をつくった。そのどこに名誉があるか? そして、おまえの母親。彼女にたいするかれの義務はどうなった。かれは彼女の名前さえいおうとしないのだぞ”

「かれは何なりと正しいことをするでしょう」かれはいった……ためらいを埋めあわせるために、大声で。「何がどうあろうとも」

「では、エダード公は一万人に一人の男だ。われわれ大部分の者はそれほど強くない。女の愛と比べたら、名誉とは何だ? 生まれたばかりの息子を腕に抱く感覚と比べたら……兄弟の笑顔の記憶と比べたら、義務とは何だ? ああだこうだと色々なことをいうが、われわれはただの人間にすぎない。そして神々は、人間を愛のためにお作りになった。それはわれわれの偉大な栄光であり、また偉大な悲劇でもある。

〈冥夜の守人“ナイツウォッチ”〉を創設した男たちは、北方の暗黒から国土を守る楯は自分たちの勇気だけであることを知っていた。自分たちの決意を弱めないためには、忠誠心を分割してはならないと知っていた。それで、妻子を持たないと誓ったのだ。

だが、兄弟もあり姉妹もいた。自分らを生んでくれた母親も、名前をくれた父親もいた。かれらの出身地は百もの喧嘩好きな王国だった。そして、時代は移り変わるかもしれないが、人間は変わらないとかれらは知っていた。だから、〈冥夜の守人“ナイツウォッチ”〉はみずからが守っている国々の戦いには参加しないという誓いも立てたのだ。

かれらはその誓約を守った。エイゴンがハレン暗黒王を殺して、自分の王国を打ち建てたとき、ハレンの兄弟は〈壁〉の総帥で、一万人の剣士を従えていた。だが、かれは出撃しなかった。“七王国”が実際に七つの王国であった時代には、その中の三つか四つの王国が戦争状態になかった期間は、一世代もなかった。〈冥夜の守人“ナイツウォッチ”〉はそれに加わらなかった。アンダル人が〈狭い海〉を渡ってやってきて、〈最初の人々〉の諸王国を蹴散らしたとき、滅ぼされた王の息子たちはやはり誓いを守り、持ち場に留まっていた。数えきれない年月にわたって、つねにそうしてきた。これが名誉の代償なのだ。

恐れるべきものがない場合には、臆病者はだれにも劣らず勇敢でありうる。そして、義務を果たすのに代償が要らない場合には、われわれは皆、義務を果たす。そのようなときには、名誉の小道を歩くのは、なんと容易に思えることか。だが、あらゆる人の人生において、遅かれ早かれそれが容易でなくなる日がくる。選択せねばならない日がくる」

「そして、今がわたしのその日だと……そう、おっしゃっているのですね?」

メイスター・エイモンは首をまわして、その視力を失った白い目でかれを見た。それはまるでかれの心の中をまともに覗きこんでいるようだった。ジョンは素っ裸にされたように感じた。

その老人はしみだらけの萎びた手をかれの肩にのせた。「辛いなあ、坊や」かれは優しくいった。「ああ、そうだよ。選択は……つねに辛かったし、この先もつねに辛い。わたしは知っている」

「あなたにはわかりませんよ」ジョンは苦々しくいった。「だれにもわかりません。たとえ、わたしがかれの私生児でも、それでもなお、かれはわたしの父親なんです……」

メイスター・エイモンはためいきをついた。「わたしのいったことを何も聞かなかったのか、ジョン? 自分が最初だと思うのか?」かれは年老いた首を振った。その仕草は言葉にならぬほど疲れているように見えた。「神々は三度、わたしの誓いを試すのが適当だとみそなわせられた。一度はわたしが少年のとき、一度は男盛りのとき、そして一度は年をとってから。そのころには、わたしの体力は衰え、目は見えなくなっていた。だがその最後の選択も最初のものと同じくらい残酷だった。わたしの鴉どもは南から、知らせを、その翼よりも黒い言葉を、わが家の滅亡を、同胞の死を、恥と荒廃をもたらしたものだ。年老い、盲い、弱ったわたしに何ができただろう? わたしは乳飲み子のように無力だった。だが、かれらがわが弟の哀れな孫や、その息子や、幼い子どもたちをも切り殺しているときに、自分が忘れ去られたままじっとしているのはやはり悲しかった……」

ジョンはその老人の目に涙が光るのを見てショックを受けた。「あなたはだれですか?」

かれは静かにたずねた。ほとんど怯えて。

その年老いた歯のない唇に、微笑が震えた。「黒の城と〈冥夜の守人“ナイツウォッチ”〉に奉仕する義務を負う〈知識の城“シタデル”〉の、いちメイスターにすぎない。わたしの学会では、誓約をして学鎖をつけるときに、自分の家名を捨てる」その老人は肉の落ちた細い首に緩くかかっているメイスターの学鎖を触った。「父はメイカー一世だ。その死後、わたしの弟のエイゴンがわたしにかわって国を統治した。祖父が〈ドラゴンの騎士〉こと太子エイモンの名をとって、わたしに名をつけた。〈ドラゴンの騎士〉は、どの伝説を信じるかによって、かれの叔父にも父にもなるのだがな。かれはわたしをエイモンと呼んだ」

愛は義務を殺し、義務は愛を殺す。この政治経済的な世界において、どちらか一方を選んだ場合、もう一方を選び取ることはできない。彼はエイモン・ターガリエンとして、ジョン・スノウと呼ばれた落とし子に向かって、そう述べた。

この七王国の物語では、愛と義務の対立を前にしては、あるひとつの公理のようなものがある。それは『愛を選んだ人物は義務によって殺され、義務を選んだ人物は愛を殺した罪で責苦の人生を味わう』というものだ。もしも氷が燃えることができたなら、もしも死者が生きることができたなら、誰かを愛するということは、もっと容易いものになるはずだ、と、思う。しかしそれはできない。われわれは、あらゆる反対物のあいだで、もがき、苦しみ、ぶち果てる運命にある。

そしてその七王国の歴史の一部分を切り取った『氷と炎の歌』と呼ばれる物語(AC315~320年くらい?)は、たしかに愛と義務の対立からはじまり、愛と義務の対立で終わるといった点において、ここでも巨大な星座を形成している。

この物語が本当の意味ではじまったのは、間違いなく、あの一点においてだ。リアナ・スタークと呼ばれた女性が、レイガー・ターガリエンに拉致され、強姦され殺されたことが、300年続いたターガリエン王朝の崩壊と、ひいてはその15年後の玉座をめぐる戦争を招くきっかけになっている。『氷と炎の歌』という物語の始点は、およそこの時点に打たれていると見て間違いない。

そもそもこの事件には、いくつか疑問が残っていた。

元〈王の楯〉総長バリスタン・セルミーは、女王デナーリス・ターガリエンに向かって、彼女の長兄レイガーについてこう語る。

「プリンス・レイガーの武勇は疑う余地がありませんが、あのお方はめったに試合に参加されませんでした。あの方は決して、ロバートやジェイミー・ラニスターのように、剣の歌をお好みになりませんでした。武術はあの方の義務のようなものでした。世間から与えられた仕事でした。それを立派におやりになったのです。あらゆることを上手におやりになる方でしたから。それがあのお方の本性でした。しかし、それを決して楽しんではおられませんでした。あのお方は槍よりも大竪琴のほうを愛されたと人民は申しておりました」

 

「・・・七王国じゅうから最強のチャンピオンたちがこの馬上槍試合大会に馳せ参じたのです。そして、その中でドラゴンストーン城のプリンスが優勝されたのです」

「でも、それはかれがリアナ・スタークに愛と美の冠を与えた大会だったのよ!」

デナーリスはいった。

「妻のプリンセス・エリアも同席していたのに、兄は冠をそのスタークの娘に与えたのです。そして、後に彼女をその許嫁から盗んだのよ。どうして、かれはそんなことができたのかしら? そのドーンの女はかれに対して、それほどひどい扱いをしたのかしら?」

物語の始点において、レイガー・ターガリエンとリアナ・スタークのあいだに、何があったのだろうか? 事実はこうであった。リアナ・スタークは、レイガー・ターガリエンに誘拐されていなかった。ふたりは、愛し合っていたのである。

ふたりは、愛し合った。そして空虚な王国の舞台袖から降りて、誰の目も届かない遠くまで逃げた。そこでふたりは司祭の立ち会いのもと、密かに正式な婚姻関係を結んだ。この婚姻で、リアナはバラシオン家を、レイガーは王室とマーテル家を裏切った。ふたりは神々との誓約を破り、愛のために義務を殺した。そしてふたりのあいだに生まれた子どもは、その名前と存在を永遠に隠され、ふたりの真実とともに、歴史の闇に葬られた。この愛の勝利こそが旗主諸侯らの反乱を生み、王朝の崩壊を招き、その後の無数の血みどろの戦争を生むことになった。それが真実の愛であったことを知らないままに。

その後、リアナ・スタークは産褥で死に、レイガー・ターガリエンはロバート・バラシオンの戦鎚で頭部を粉砕されて殺された。

そしてふたりの隠し子は、〈炎と血〉を掲げるターガリエン家の血を継ぎながらも、〈冬来たる〉を掲げる北部のスターク家のなかで、私生児として隠され、育てられた。

彼の本当の名は、〈エイゴン・ターガリエン〉という。

すべての物語が終わったとき、奇態な賢人ティリオン・ラニスターは、彼に向かってこう言ったものだ。

「思えばすべてのはじまりは、ロバート・バラシオンが愛した女が、彼を愛さなかったせいだ」

もしもリアナ・スタークがロバートを愛していたら、あるいは義務のためにレイガーを拒んでいたら、ターガリエンの王朝はあと何十年か(少なくとも太子レイガーの代までは確実に)続き、目立った戦のない季節を過ごせたかもしれない。しかし彼女がレイガーとのあいだに子をもうけなければ、七王国が自ら民主制(寡頭政?)へと移行することはなかっただろう。

〈エイゴン・ターガリエン〉こそ約束された真の王子、『氷と炎の歌』そのものであるが、彼は物語の始点そのものとして生まれてきただけでなく、誰かの義務のために自身の愛を殺すことによって、物語の終点を結び、その巨大な天体の尖端を閉じることになる張本人でもあった。

そして彼が最後に殺した愛が−−−生かした義務が、〈鉄の玉座〉そのものを溶かす、ドラゴンの炎になった。そして彼は〈女王殺し〉の罪を背負い、〈壁〉の向こうへと姿を消すことになった。

この物語は、義務の敗北によってはじまり、愛の死によって幕を閉じる。そしてその閉じられた物語の尖端が、〈鉄の玉座〉の終焉に折り重なっている。まるで最後のエイゴンが犯した罪を、彼の目を通して、最初のエイゴンが見守っているかのようだ。最後のエイゴンは、それに気づいただろうか? いや、気づきもしなかったのは最初のエイゴンのほうだと思う。まさか自分が作った玉座を、こうして300年後に自分の手で葬ることになろうとは。

愛と義務は、究極の氷と炎だといえる。だがそれも、無数の群像劇のひとつに過ぎないと私は思う。

20220614失業者の日記

移転先の行政機関で転入手続きを行った。家から、書類を持って、斜めになりながら走っていった。風は逆向きだった。途中、信号に出くわすと、信号機の赤い色が、青い色に冷めるまで、目を閉じて待った。ふと、歌が聞こえた気がして、目を開けると、そこには市役所があった。市役所は塔のようなかたちをしていた。

役所の受付には、役人がいた。役人はこちらを見ていた。その場には私以外、手続きを待つ市民はいなかった。しかし発行される番号札を持って、呼び出しがあるまでベンチでしばらく待つように言われた。私は、まわりを見渡していた。私一人しかいないのだから、番号札は不要なのではないだろうか、と思った。しかし画面に私の番号が表示されると、さっきまでこちらを見ていた役人が歩み寄ってきて、いきなり親しそうに話しかけてきた。

転入手続きは、何枚かの紙切れの交換で済んだ。それから国民健康保険への加入手続きを行なった。受付の役人は、何度か入れ替わり立ち替わりしたが、皆同じ顔だった。しかし見ると、市民も入れ替わり立ち替わりしていたが、私も同じ顔だった。となりの受付で、私と同じ風貌をした市民が声を荒げていた。「何で駄目なんだよ」「そちらの手続きですと、こちらの書類もあわせて持参していただいて、再度お越しいただかなくてはなりません」「何でだよ。毎日なんて来れねえよ。こっちだってそんなに暇じゃねえんだよ」「はあ、すみません。上の者に確認して参ります」といったようなやりとりをしていた。しばらくすると、役人が戻ってきて、親切そうな笑みを浮かべながら、「こちらの書類だけで結構です。どうぞ」と言って、虚脱した男を連れてどこかへ去っていった。

私はそれを横目に見ながら、協会けんぽから国民健康保険へと切り替えの手続きを行なった。保険とは、「万人は一人のために、一人は万人のために」という相互扶助の理念のもと、人間の生活上のリスクを軽減するための社会制度のことをいう。

しかし、そもそも生命の存続には、多数の維持費と再生産費がかかる。食費、公共料金、教育費、通信費、自動車関連費、交際費、医療費、保険料、交通費。

所得税、住民税、固定資産税、都市計画税自動車税、健康保険、年金。

結婚資金、住宅資金、教育資金、老後資金。

国家が政治経済的判断を誤れば、国力は低下し、民は飢え、通りは物乞いと人殺しで溢れかえるだろう。そして人々の怨念となった剣が、やがて哀れな為政者を切りきざむことになるだろう。しかし現在の日本国家は、民主主義制度を採用しているので、そもそも為政者を選択するのは、民衆の仕事でもある。だから、われわれの剣は両刃だ。

いや、こんなことをしている場合ではない。私はこのままでは、区民税も支払えない。なぜもう豊島区民じゃないのに、区民税というものを、支払わなくてはならないのだろう。いや、しかし私は、疫病に感染したときに、無料の配食サービスを、豊島区の幇助で受け取っているような気がする。そしてその缶詰のパンや、インスタント食品が、まだ物質として、手元に残っている。それは確かに可視化された納税義務のように思える、が、この貧しい私の怨念の剣を研ぐ砥石にもなっている。

しかし、区民税は分割納付の手続きを行えば、一度に六万を払わずに済む。そして、国民年金も、いくつか条件を満たせば、支払いが一部もしくはすべて免除される。しかし免除された分は、あとで支払わないと、私の老後の年金に還元されない。そのシステムは確かに美しく、人々に平等に降り注ぐ陽光のようでもあるが、聖書を暗記するしか能がない貧民たちの心の中は、富める者を火あぶりにして、串刺しにする夢でいっぱいになっている。そうだ。どんな国家も自重で潰れるものだ。春の眠りは断続的なもので、長くは続かないものだ。

いや、こんなことをしている場合ではない。しかし私も怠惰な民衆の一人でしかない。死神にいう言葉はただひとつ。「今日ではない」だ。しかしわれわれはそうやって、死を明日へ明日へと先送りにしているだけのような気もする。だが生きるということはそういうことなのか。誰かを深く愛しても、その感情はいつか終わることになり、子どもを生んで育てても、その子はいつか死ぬことになる。

古代ヴァリリアにおいて、「ヴァラー・モルグリス“皆死なねばならぬ”」という呼びかけに対しては、「ヴァラー・ドヘイリス“皆使命を果たさねばならぬ”」という言葉で、応えなくてはならない。それは二対で一つの言葉だからだ。

20220610ロバート・バラシオンの告白

北参道駅で降りて、代々木駅の方へ歩いていくと、喫茶店に入って冷たいお茶を飲んだ。しかしそれがいつのことだったのか、私はもうわからない。

冷たいお茶を飲んだ。しかし胸のつかえは取れなかった。その数時間前に、私は雑司ヶ谷のアパートにいて、来月の支払い額を計算すると、現状の貯蓄を上回ることに気づいた。私は引っ越しが終わって空になったアパートの部屋を、うろうろと歩きまわっていた。それから、しばらくすると、ひとまとまりになった不安が部屋の中へ拡散していって、平衡的な気体の状態になっていった。

しかしそれから数時間経ち、喫茶店の冷たいお茶を飲むと、やはり胸のつかえのようなものを感じた。すると(気体はまだ奇妙な分布を形成しているな)と私は思った。やがて約束の時間になると、私は店を出て、歩いていった。代々木駅へ戻って、そこに立って、Nさんを待った。代々木駅は、人々がたくさんいた。ふと下を見たときに、声をかけられて、見ると、Nさんが立っていた。Nさんは半袖だった。私が何か言おうとすると、Nさんは、「それは何か」と言って、私の足元の、大きな赤い鞄を指差した。私は「このあと夜行バスで東京を去るから、これは手で持っていく荷物だ」と言った。Nさんは、そのとき何かを言っていた。それから、Nさんは歩きながら、「あっちに居酒屋がある」と言って総武線の高架下の向こうを指差したが、私が別の店を予約してしまったことを告げると、Nさんは「どこでもいい」と言っていた。

予約した安い居酒屋に入ると、奥の個室に通された。店員は皆ニコニコしていて、朗らかだった。店内は、琵琶の音色が鳴り響いていた。部屋に入って、椅子に座ると、目の前にテーブルがあり、その向こうの壁に浮世絵が掛けられていた。その奥行きのこちら側に、Nさんが座っていた。そしてメニューを開きながら、何かを言っていた。つまり、Nさんの後ろの壁に、浮世絵が掛けられていたということだ。店員は皆、朗らかだった。

私たちは、安い冷たい日本酒を飲んでいた。Nさんは顔を上に向けて、口を開けながら、その中にキュウリを入れながら何かを話していた。

「シン・ウルトラマンは面白かった」というような話を、Nさんはしていた。私は面白いとは思わなかったから、思い切って「面白くなかった」と言ったが、Nさんにはそれは「面白くなかった?」という質問に聞こえたらしく、「いや、面白かった」とすぐさま答えていたから、私も相槌をうった。それから私は「実は来月、支払い額が貯蓄を上回る」と言って、「早くバイトをはじめないと、破産すると思う」と告げてみると、Nさんは「一体どうしてそんなことになるのか、わからない」と言って、キュウリや、山芋を食べながら、生活というものに対する、自身の思想を述べはじめた。

毎月の収入と支出を記録して、剰余分の利益をなるべく多く保持できるよう、生活そのものを調節するのだ、と彼女は言っていた。確保した利益は一部は貯蓄に回し、一部は資金繰りのための支出に回し、労働力の維持と再生産とに努め、この日々が少しでも長く存続していくよう、経済活動に注力するのだ、と彼女は言っていた。

私はそれを聞くと、深い感銘を受けて、彼女の生活様式や思考を、これから先の人生で模写していきたいという旨を、彼女に告げた。すると彼女は、「これは普通のことですよ。私よりもしっかりしている人は、たくさんいますからね。老後の年金のことまで、考えている人がいますからね」と言って、それから困ったような顔になり、「私はそれはできない。だって、今から老後のためにお金を貯めていたら、じゃあ今って何?って、思ってしまう。私は、たくさん旅行に行きたいし、視力が良くなる手術も受けたい。もっと色んなことをしてみたいし、そのためには、とにかく、金がかかる」と、そう、言っていた。そして彼女は、「だからこそ、私は会社の無駄な会議が許せない。毎週月曜日の朝に行われる設計会議では、皆が無駄な話し合いを続けて、長いときには昼前までかかる。それは私の労働時間を圧迫し、私の労働力を浪費している。それは会社にとっても損害になりうる。そして何よりも、その会議は私の、私自身の生きる時間を阻害している。私は、私の時間が他人に奪われることが、何よりも耐えられない」と言っていた。

(時間かあ)と私は思った。(もしも時間が自分で、自分が時間だとすると、いったい何を目盛りにすべきかなあ)と思った。するとNさんは急に、「どうやら私ばかり食べているようですね」と言って、刺身の盛り合わせを指差して、「これはほとんど私が食べた」と言ったが、刺身の盛り合わせはまだたくさん残っていた。それに刺身なら私も何切れも食べていたから、Nさんは別にたくさん食べているわけではなかった。私はそのときそう思った。それを覚えているが、それがいつのことだったのかはわからない。それからNさんは、「8月に旅行に行くんですけど……言いましたっけ?」と言ったので、私は、「聞いた」と言った。それはこのあいだ聞いたから、私は覚えていた。「ミナミさんという名前の友達と二人で、四国の離島に星を見にいくのだろう」と私は言った。するとNさんは頷いて、「そう」と言った。「ミナミさんというのは、幼馴染か」と私が聞くと、Nさんは「ミナミは大学の友人だ。幼馴染といえば、私にはチエちゃんという幼馴染がいるのだが、子供のときからお互いにちゃん付け呼んでいるので、今でもチエちゃんと呼ぶ」と言って、それから彼女はチエちゃんの話をしはじめようとしたのだが、すぐにやめて「そういえば最近、私はだんだんと社長のことが嫌いになってきているんですよね」という話をしはじめた。すると私は驚いて、「チエちゃんの話は、どうしたのか」と聞くと、彼女は「何かの話の前置きとして話しはじめたのだが、話しているうちに本体の話を忘れてしまったので、チエちゃんの話はもういい」と言って、「初めは社長に気を遣われていたから、私も良い距離感で良かったんですけど、最近は、私を室長代理に任命して、方方に連れ回して、色んな仕事を与え、私に残業をさせはじめている。私がそれに反発すると、社長は怒るようになりはじめた。そういうとき私はこう思うんですよね。なんで怒るの? どうしてそんなことで怒るの?」

彼女は喋りはじめた。

「この間もこういうことがあった。私は社長の車に乗っていた。白い車だった。出張のため、東京から長野まで、社長の運転で向かった。私は助手席に座っていた。社長は、高速道路で追い越し車線を蛇行運転でぐんぐん加速していた。私は助手席に座ってシートベルトを締めていた。車の中は、タバコの匂いと、芳香剤の匂いが入り混じって、とても臭かった」

私はそれを聞くと、工務のTさんが社長の車に乗って出張をしたときに、車内の匂いに耐えきれなくなってサービスエリアで嘔吐したという話を思い出した。私がそれをNさんに告げると、彼女は真面目な顔をして、何度か頷いていた。私は彼女が笑うと思って話したので、笑わなかったのが意外だった。

「行きは我慢していた。窓を開けたりして、何とかやっていた。でも帰りは限界だった。『煙草の匂いがきついから、帰りは電車で帰りたい』と、私が社長に告げると、社長は怒った。『出張費用もかさむから我慢しろ』……と、急に不機嫌になった。私は思った。なんで怒るの? どうしてそんなことで怒るの? 私はあの車に乗ると、着ているものも、鞄も、ポーチの中身まで、その匂いになる。私は出張から帰ると、すぐにそれらを洗濯する。鞄も、前まで使っていたものは布っぽいものだったので、無理やり洗濯していたが、今は革なので、洗濯することができない」

私はそれを聞くと、(とても面白い話だ)と感じた。それから、(でも笑い話のような感じで話していないのが、意外だなあ。冗談で話しているわけでは、ないのかなあ)と思い、あまり笑いすぎないようにしてから、少し考えて、「もしも自分だったら……」と喋りはじめた。

「もしも自分だったら、『帰りは前橋で友人に会う用事があるので、電車で帰ってもいいですか?』というような適当な嘘をついて……帰りは車に乗らないようにする……。もしくは『車酔いが~』というような嘘をついて……一人で電車で帰るようにする……。もしも本当に匂いのせいで気分が悪くなったとしても、それを社長には直接伝えない……」

というような、殺菌消毒されたようなことを言った。するとNさんは、

「でもそれって根本的な解決になってなくないですか? その場はやり過ごせても、また必ず同じことが起きる」

と言った。

私はそれを聞くと、彼女の声で作られたその言葉が、しばらく耳に残った。

しかし同意はしなかった。それは正しいように見えて、何かが間違っている考え方のような気がしたからだ。なぜならば、根本的に解決できる問題など、対人関係ではとくに、この世には存在しないように思われるからだ。たとえば、社長を殺したとしても、殺害した主体の意識および無意識には、「社長を殺した」という事実が一生影響を及ぼし続けるから、おそらく根本的な解決にはなっていない。かと言って社長は生きている限り、社長の考えで勝手に動き続ける。車の匂いについて指摘すれば、もちろん社長は怒る。その怒りの思考回路を外から他人がいじくって、今後同じパターンで怒りの反応を見せないように社長の脳を改造することは、できない。穏便に話し合っても、二、三の温い妥協点が見つかるだけで、根本的な解決にはならない。しかし妥協点を解決と見なさなければ、Nさんの怒りも社長の怒りと同じ、醜い鏡写しの存在になってしまう。

私がそのようなことをNさんに告げると、「じゃあ嫌いな人っていないんですか?」と彼女は反対に私に聞いた。私は、考えると、おそらく、私は今は嫌いな人がいないだけなのだろう、と結論した。そして、彼女に向けてそのように発語し、説明した。彼女は納得できないように頷いていた。私は続けて、「しかし自分は、今はまだ嫌いな人がいないだけであって、いずれまだ見ぬその誰かに会ったら、私はおそらく実際にその誰かを嫌悪し、憎悪しはじめることだろう」と、私は言った。それから、私はまた考えてから、

「どんな人にも、良い点と悪い点があって・・・」

というような、効力の無い言説を唱えはじめたが、Nさんはすかさず、

「私は絶対に無理。嫌いな人を、好きになることはできない。私は態度にすべて出てしまうから、私が嫌いな人も、私に嫌われていることがわかってしまって、私たちは、ますます仲が悪くなる」

と言った。「嫌いな人を前にすると、どういう態度になるのか」と私が聞くと、彼女は「自分ではわからない」と即答した。それから私が、「じゃあ私がNさんの嫌いな人だとしたら、」と言ったら、Nさんは「嫌いな人とご飯は食べない」と言って、私は一瞬ドキッとした。しかしすぐに「仮に、私がNさんの嫌いな人だったとしたら、こうやって、私がNさんに『ほら、食べな』というふうに、刺身を食べるように勧めたら、どういう態度をするのか」と聞くと、彼女は「食べたいものだったら食べるし、食べたくないものだったら食べない」と言った。私はそれを聞くと、(痛快だ)と感じた。そして「素晴らしい。真の自由民だ」と言うと、Nさんは途端にニコニコして、笑顔になった。

しかし今では、その顔も忘れてしまった。Nさんは確かにそのとき、ニコニコしたのだ。だが、私は今ではその情報だけを覚えていて、彼女がどんな顔をしていたのか、忘れてしまった。

かすかには覚えているのだが、解像度が低い。それは今から離れて、遠くになってしまったのだ。Nさんは結果的に私が東京で会った最後の人だ。

情報エントロピーは熱力学的エントロピーの制約を受けている。物理系が劣化すると、そこに保存されていた情報も劣化する。砂浜に書いた文字は、やがて来る波や、風によって消え去り、その意味内容も消える。起こる可能性の低い低エントロピーの配置(意味のある文字)は、起こる可能性が高い高エントロピーの配置(意味のない砂)へと、必ず変わる。そういうふうになっているのだ。われわれが情報を記録するために、どんな方法を選んだとしても、砂の上に書いた名前が波で消されてしまうのと同じように、エントロピーが容赦なく増加するにつれて、情報は確実に消えていき、最後にはすべてが消え去る。熱力学者ウィリアム・トムソンは、宇宙の熱的死を予期し、次のように述べた。

この宇宙は、エントロピーの増大に基づいて、必ず最終的にはあらゆる温度が同じになり、思考も、記憶も、すべて忘れ去られる、と。

私はそれを聞くと、かつてロバート・バラシオン一世とその王妃サーセイが交わしていた、このような会話を思い出す。

ある昼下がり、居室でワインを飲んでいる王のもとへと、王妃が訪れる。二人はテーブルを挟んで向き合い、沈黙のなかワインを飲む。

王「……ここ9年間、戦争をしていない。裏切りと策略とおべっかと金策が横行している。いったい何がこの王国を、繋ぎ止めているのか?」

王妃「私たちの結婚?」

ロバートは唾を飛ばし笑い、サーセイも唇を歪めて笑う。

王「おう、そうか、俺たちは向かい合い、17年間、この国を繋ぎ止めているというわけか」

二人は笑い、杯を上げる。ワインを飲む。

王「……疲れないか?」

王妃「ええ。毎日」

王は虚ろな目で杯を見つめる。それから二人とも、ワインを飲む。

サーセイは唐突に訪ねる。

「どんな方でした?」

ロバートはしばし沈黙する。

「なぜ、今になって彼女の話を?」

王妃は無表情に語る。

「初めは名を口にするだけで、生き返ってしまう気がした。話題にしなければ、あなたも忘れると。でも忘れないことを知り、これまで聞くことを拒んできたのです。あなたに気にしていると思われると、癪だから。結局私が恨んでも、あなたは喜ぶだけですから」

「ではなぜ、今聞く?」

王妃は答える。

「リアナ・スタークの亡霊に苦しめられるほど、もうお互いに関心はないから」

ロバートはサーセイを見つめる。だがその目は王妃を見ていない。

「真実を知りたいか?」

ロバートは出し抜けに問う。

王妃はぼんやりと王を見つめる。

「顔も思い出せない」

サーセイは目線を外してワインを飲む。

王は告白する。

「生涯でただ一人、欲した人なのは覚えている……。だが彼女は奪われ、七王国をしてもその穴は埋まらなかった……」

ロバートの目は乾いている。

「今では、その顔も思い出せぬ」

サーセイは告げる。

「一度はあなたを愛した」

ロバートは応える。

「知っている」

王妃の目も乾いている。

「最初の子を失っても、しばらくは……」

西日が差し込む。二人とも、ワインを飲む。

王妃はたずねる。

「私たち、いい関係になれたときはあったかしら?」

王はしばらくしてから、応える。

「一度もない」

サーセイはまたワインを飲む。

「……どんな気分になった?」

ロバートはサーセイにたずねる。

王妃は宙を見つめて言う。

「何も感じないわ」

その後ロバート・バラシオンが死去し、各名家による鉄の玉座をめぐる戦争がはじまった。

20220524顔

区役所に転出届の手続きをしに行くと、人々がたくさんいた。人々の顔がたくさんあった。人々は座っていた。座って、番号札を持ちながら、それぞれの手続きを行うための呼び出しを待っていた。皆、スマホをいじっていた。顔というものは不思議なものだ、と誰しも思うだろうが、私もそう思いながら見ていた。そして、(もし自分が政治家だったら、こうやって区民の顔をまじまじと見ること自体が、きっと良い現場視察になるのだろう)と思った。執政者は、自らが治める民の顔つきを知っていた方が良いはずだ。しかし私は執政者ではなかった。私は人間が作るものが好きだった。国も、区役所のシステムも、人間が泥仕事を続けて頑張って作ってきた制度だから、無くなってしまうのは惜しい、と思った。ウルトラマンも同じようなことを言っていたが、私は外星人としてではなく、人間として人間が好きなのだから、彼とは違う立場だった。しかし人間とは、気をしっかり持っておかないと、すぐに作ったものを壊してしまう生き物だ。だから努力しないと国も区役所も存続しないのだろう。しかし人間とは不気味でおぞましい生き物だ。区民たちの顔を見ていると、私は、この中で生かしておく価値のある人間は一割にも満たないような気がしたが、それはあまりにも傲慢な考えだ。私は人間が好きなのではなく、人間が好きな自分が好きなだけなのだろう。他者は恐怖の根源だ。だからこそ、おそらく私は安心したいだけなのだろう。この残酷なセカイで、安心を得るためには、他者を愛するしかない。私はそういったことを考えるのが好きだった。